2016年06月08日

20160608 身体を考える。

メロンオールスターズに参加して、音楽家以外のパフォーマーの方々を見たり喋ったりすることが何よりも経験として身になっているように思います。


特にここ数ヶ月考えている「身体(身体性)」に関して、先日の船上ライブでのコマツアイさんの踊りの一幕に一人痺れておりました。詳細はまた改めてしっかりと咀嚼した上で書き記したいと思います。


音楽家、演奏家というものは時間に対してどれだけ存在感を問えるかという問題に悩み続けますが、体を使ったパフォーマーたちは時間というものに対して非常に素直に受け止め、また受け流しているように僕には見えました。もうそこには逆らわない。というふうなようにも時には見えるくらいです。それよりももっと空間に対してどう向き合うか、といったことの方に重きを置いているように思えました。その際やはり、自らの肉体と精神だけが武器と言いますか、表現装置となるわけですから、音楽家や演奏家が楽器や機材を通して音響化させる表現というものとは多少なりとも性質が違うとはいえ、違うものだなぁとメロンに参加するたびに思うわけです。


では音楽家や演奏家がどれだけ肉体に対して考えているのか、思想を持っているのかと問われると、基本的にはその人次第ではありますが、演奏上の技術と継続していくための体ということ以上には踏み込んでいないのではないかと僕は思っています。どうしても想像やイマジネーションの後になるんだと思います。


体をまず変化させることでそれに合わせた想像力を得るということ、まぁざっくり言えば過剰なダイエットや急激な肥満ですらそうだと思います。ダイエットしている時はイライラしやすいとか言いますよね。それも肉体から精神への刺激だと僕は思います。


んーまた何を書きたいのか、伝えたいのか分からなくなってきました(笑)


パフォーマーに対して音楽家や演奏家が劣っているということではなく、それぞれが脳の別の部分から表現というものへ辿り着こうとしているということですが、そこをもう少し僕は音楽家側からパフォーマー側の脳の状態を知ってみたい、それでやってみたいと思っているんでしょう。音楽は少し精神に傾倒しすぎているかなと最近では思っていて、どうすればもっと肉体的な音楽ができるのか、精神と肉体のバランスが計れるのか、そういったことを考えています。


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2016年06月04日

20160604 今日明日は琵琶湖でメロンオールスターズ!

今日明日とメロンオールスターズが琵琶湖汽船船上にてライブパフォーマンスします!

※僕は5日のみの参加になります。
そして僕が現存するドラマーで最も好きなドラマーである豊田晃さんは4日のみの参加ということで、また会えずじまいでとても悲しい。嗚呼いつの日かツインもしくはトリプルドラムでご一緒したい!

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メロン6月裏.jpg

メロンオールスターズ船上公演
「マー坊の青春 ウラオモテ 〜湖上にて〜」

2016年6月4日(土)18:00出港 20:00帰港(受付17:00〜17:50)
2016年6月5日(日)14:00出港 16:00帰港(受付13:00〜13:50)

予約・前売3,000円 当日3,500円
(高校生以下・車いす・障がい者無料)
琵琶湖汽船「megumi」船上

⭐︎受付場所:大津港観光船のりば
⭐︎所在地 :大津市浜大津五丁目5-1
⭐︎アクセス
・公共交通機関 JR琵琶湖線 「大津駅」 下車 徒歩 15分
・京阪電鉄/石山坂本線 「浜大津駅」 下車 徒歩 3分
・車 名神大津ICから5分
⭐︎駐車場 普通車 150 台(浜大津アーカスを御使用の方は3時間無料)

ご予約・お問い合わせ
melonallstars@gmail.com

「メロンオールスターズ」
森定道広(コントラバス)
デカルコ・マリィ(アングラ)
中西功(ドラムス)
行本清喜(トランペット)
市川聡(ギター)
コマツアイ(ダンス)
名定正孝(ピアノ)
きよこ(舞踏)
マサト(舞踏)
田中美保(スタッフ)
田村早恵(スタッフ)
山本幸代(スタッフ)
殿村ゆたか(役者)
川本充(役者)
太郎(ダンス・唄)
みみ(ダンス)
高木順(ダンス)
加原敏巳(写真)
諏訪いつみ(役者)
金魚(ダンス)
津上信子(フルート)
由中小唄(ボーカル)
定岡弘将(ドラムス)
有本羅人(トランペット)
荻野やすよし(ギター)
豊田晃(ドラムス)
登敬三(テナーサックス)
荒崎英一郎(テナーサックス)
袋坂ヤスオ(舞踏)
原口裕司(ドラムス)
永澤こうじ(役者)
大歳芽里(ダンス)
Bridget Scott(ダンス)
高瀬薫(スタッフ)
山口朋子(唄・三弦)
村木基起(スタッフ)
森定夏彦(スタッフ)
下坂千尋(役者)
西山まき(役者)
永尾美久(宣伝美術) 
山本隆雄(制作)

「メロンってなんなの?なにしてんの?」と聞かれることがたまにありますが、いつも答えに窮しています。これと例えようがない独創的で、役者が主体の演劇とも言えなければ歌やダンサーがいるけどもミュージカル風でもなく、舞踏でもなく、、、。言語化不能と言ってしまうのは簡単ですが、それでもメロンを掴み切れていない表現のようにも思います。

非日常であることは間違いありませんが、果たしてそれが本質かというとそうでもない気がするんです。役者、舞踏家、アングラ、ダンス、その辺りが僕周辺の音楽を愛するだろう方々から「?」を生んでいることは分かりますが、その人たちがいるからこそメロンオールスターズなのだろうと断言できると思います。

回りくどい言い方はやめます。

とりあえず一回体験してみてください。そして、その場はメロンオールスターズに身を委ねてください。そして打ち上げにも参加して、全身でメロンオールスターズを体験してみてください。結局ね、それでもなにかなんて分かるわけないんですけどね。僕も五年近く参加してますが、いまだにじぇ〜んじぇん分かってませんから。

どうぞよろしくお願いします。
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2016年05月30日

20160530 たあいもないこと

徒然なるままに書き記す。忘備録というほどのこともないが、言質として次回とすべく書き記す。


最近分かったこと、というほど大袈裟なことでもないが、自分でも意外だったのだが、どうも僕が一番好きなピアノトリオはチックコリアのということだった。そしてチックコリアも好きだということだ。しかし視界に映る限りのチックコリア好きを自称するピアニストたちはフージョン臭がしてとても近寄りたいと思わないが、僕自身はチックコリアがとても好きだということに今更気づいたのだった。

宇宙の星屑ほどあると言われているジャズのCDやレコードの中で五枚選びなさい、選ばなければ死にますと問い詰められたら、間違いなくチックコリアの「Now He Sings, Now He Sobs」が入ることになるだろう。どうして好きなのかと自分でもはっきりとした理由らしき理由は有していないが、それゆえに生理的な部分で腑に落ちるからだとも言えなくわないだろう。

先日も明石のポチでセッションに参加してくれた若手の某氏とセッション後に話していたときに、ポチのN西さんが「ハンコックとかしにしても自分の出来ることだけして、出来ないことはしないから。何でもやろうなんてそんな人いないよ。チックコリアとかは別かもしれんけど」みたいなことを言っていたので、思わず僕は「でもチックコリアはリズムセクションの人間だけ変えて、やってることって一緒なんですよ。そこが賢いっていうかねぇ」と言っていた。N西さんも「そっか」と思うところあったような表情で笑っていた。その若手の某氏だけが空を見ていたなんてことがありました。

リズムの捉え方や、音の並びが決してビバップから芽が出たような、例えば「黒っぽいと」称されるようなピアニズムではありませんが、チック自身の生理や衝動に対して非常にダイレクトに反映していると僕は感じてそこはすべからくジャズらしいジャズだなと感じているところです。

あとやっぱり何でも手広くやっているイメージがあるんだけど、ライブ動画とか見るといつも同じ曲をやっていたりして、「何でも」というのはやはり何かしらの御解釈の元にあるんだろうとも思っています。共演者にしても然りで、自身のリーダーとなるバンド編成においてはいつもの面々ということが多いですね。企画物は別として。

あとリズム隊の組み合わせの妙に僕は驚きます。ヘインズとミロスラフとのトリオなんて最高ですよ。特にミロスラフなんて絶対曲知らんと耳と反応速度だけでやってるっしょ!?っていう適当さに盤石のチック&ヘインズのアンサンブル能力で立ち向かうという構図に僕は感じていて、どのアルバムも痺れるものがあります。

近年でのマクブライドとブレイドとのリズム隊も意外な組み合わせだと思いましたが、これもこれで面白いなぁとよく聴いています。しかしブレイドが二拍四拍でハイハットを踏んでいるのを聞くたびに逃れられないジャズの
イディオムの強靭さも感じて、なんというか心は侘び寂び比率二:八で胸が苦しくなることもあります。

そして何よりも彼のトリオを聴いていて「決断力」という言葉がいつも胸に迫ってきます。ジャズのアドリブ、まぁアドリブに限らずですが、イントロの一音目からエンディングの音を切る瞬間まで絶え間ない決断の繰り返しですが、それがチックコリアを筆頭にかのトリオの面々は侍が腹を切るが如くの潔さで斬れ味が非常に鋭いわけですよ。発想も鋭角なれば、展開も鋭角と言いましょうか。そしてとにかくその決断の根底にはおもちゃで遊ぶ子供の心のように「ただただ楽しく面白く」を頭じゃなく肉体的に全身体性を以ってやっているように僕は思えます。だからジャズのイディオムらしいイディオムに対して非情冷酷でありながら無かった物として扱うという非常識さは当然ありませんが、そこに甘んじるということは決してありません。未知なるものに対する欲望が果てしないんだろうなと浅薄ながら感じ取っています。


いつもプーさんプーさんと言って騒いでる僕ですが、プーさんもジャズイディオムに対する姿勢はチックと似ていると思いますが、この人の場合はもっと人間としての業、ピアニストとしての業、ジャズミュージシャンである業といった風に、とにかくそれらの因果にひたすらに苦悩していて没頭していったように思えて、音源を通してしか知り得ませんが、苦々しい日々を過ごしていたのだろうなと噂に聞く氏の人間性も省みて思う次第であります。その点でチックコリアはもっと軽やかに「アハハハーン」とか鼻で笑いながら地面を弾みながら独自の音楽で活躍しているんだろうなと受け取るこちらとしても深刻になりすぎずに楽しめますね。


長々と書いてしまいましたが、最近はそういう感じで生きています。
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2016年05月26日

20160526

先週末から気分が晴れない。サウンドフェスタで神経を摩耗し、夜のポチとで体力的にヘトヘトになったことと、その前後に酒量が増え、生活リズムが乱れたことが理由だと思うが、気温も上がったことも要因ではあるだろうと思っている。

サウンドフェスタ以上に同時開催していたイベントにたくさんの子供連れの家族が来ていて、どうもその雰囲気や、往来に立つ人々に気遣いながら楽器の運搬をしたことが原因のようだが、それだけではないような気がする。

イベントが盛況なことは良いことである。それは僕もそう思う。そうでなければ続けていくことも出来ないし、企画者や主催者の努力が泡となってしまう。来た人も楽しそうだったし、イベントスタッフ達も多忙で活き活きとしていた。良いことだと思う。

が、想定以上に盛り上がってしまうと整然さを欠くのではないかという点が僕の中で重いのだ。それによってイベントの重心が上がってしまうことがあると思う。違う言い方をすれば、相乗効果でちょっとしたことでワッとなりやすいということもあるが、僕自身もハコが大きくなったり、観客の数がハコに対して「満」の状態になると緊張もするし、それによって力むことがある。無意識に普段よりも頑張ろうとしすぎるからだ。でも同時にいつもよりパフォーマンスが下回ってもその状況が許してくれるということもあるのだ。それが危険かなって思うから、あの日以来消化不良のまま過ごしている感は否めない。

例えばA面とB面、そういう言い方は誤解を招く危険性があるが、春日野道はB面としての機能があると思うんですよ。それが盛況であるということでA面感が出てしまった、ということが咀嚼できなかったのかもしれない。
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2016年05月13日

20160513 マイブーム

最近のマイブームを列挙。

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時代はきしめんだ。

元来麺キチで、一日一食は麺類なくらい好きなのだが、気温も順調に上がってきている今日この頃、ぶっかけうどん、ぶっかけそば、ぶっかけそうめんが美味しくて美味しくて堪らない。

先日もスーパーの麺類コーナーの前で何やかんやと見ていたら、妙に腰の座った態度できしめんと稲庭うどんが並んでいて、稲庭うどんと細うどんの違いが未だに分からないベイビーな僕は男らしい佇まいのきしめんを手にレジに直行したのだった。

一度茹でてから冷水で締め、あとはぶっかけて啜るだけ。シンプルかつ美味い。洗い物も楽。何より暑苦しくない。かといってきしめんゆえに他の麺類では比類なき噛みごたえと啜るときに感じる唇との摩擦からの官能性に気が狂いそうになった。美味ーーーーーーーい。

今朝は近所の大安亭市場のオリンピック製麺所で一玉百円のきしめんを購入し早速食べた。それはもうスーパーのものとは次元の違うきしめん具合でさらに満足だった。しばらくハマりそうである。





音楽ではH Jungle with tGoing Going Home にハマっていて、一日一回は聞いている。

そもそもこの曲を聞いたきっかけが恥ずかしいんだけれども、某エロサイトでアイドルのイメージ動画を見ていたときに、そういう動画の多くは無料のフリー音源を使い回していたりするんだけど、アップする人の編集で消音して懐かしのポップスを重ねられていたりすることが多くあり、性的欲望を膨らましているのにすっかり「あ、この曲いいなぁ〜」と意識がいってしまうことがたまにあり、一番最近聞いてグッときたのがこれだった。

元から浜田さんの歌声が好きで、特に「春はまだか」が一番好きだったのだけれども、この曲や「誰かが起こせよムーブメント」の方も今聞くと素直に格好良かったりするのである。見落としがちな90年代中頃のポップス。まぁいわゆるTKが天下を取っていた時代なのだけど、天下を取っただけのことはあると思わざるを得ないのだろう。



あとは何と言っても赤瀬川原平だ。

毎週のように図書館に通ってはこの人の本を借りて貪るように読んでいる。大袈裟な言い方になるが、僕が今まで読んできた作家やその本、それは小説エッセイその他に限らず、とにかく文章という文章、言葉という言葉に触れてきたのはこの人の文章に至るまでの過程に過ぎなかったのではないかとすら思えるのだ。

特に最近集中して椎名誠や東海林さだお両氏にハマってかなりの量を読んだが、そのユーモアや軽妙な文章体にも非常に魅力を感じたが、赤瀬川さんの文章からは他の人には感じ得なかった品格があった。その感じって宮沢章夫さんの文章もあるのだけど、あの人はあの人でもちろん面白くて大好きなんだけど、自分が書く言葉や思想みたいなものに絡まっている感じがするんですよ、赤瀬川さんと比べると、ですけど。その点で赤瀬川さんは非常に軽やかに自分を再考する潔さがあるし、文章中にその過程をさらけ出すので逡巡が手に取るようにわかり、その人柄がなんとも言えず魅力的に感じてしょうがないのである。

赤瀬川さんや写真家の森山大道さんを調べれば調べるほどに、穏やかな人ほど怖いなぁと思うようになってきた。見た目派手だったり、作風が飛んでいたりする人っていうのは逡巡が少ないように思うんです。偏見ですけどね。それよりかは、穏やかな眼差しの裏にはどこまでも冷酷な批評性が潜んでいるような気配もするし、他者に対してあくまでも他者と切り離して思考するんだという僕からすれば優しさみたいなものを感じるのである。

憧れ。まさにそれ。赤瀬川さんに憧れる。




こうやってマイブームを並べたが、一見何の関連性もないようだが、これが僕の身体を通して収斂する日が来ると確信を持っているのだ。

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2016年04月24日

20160425 サンデーモーニング

米が炊けるまで味噌汁の具でも買いに行こうかと500円玉とカメラを持って春日野道を歩いた。比べるのも変だが、三宮なんかよりよっぽど眼が活き活きとする。比べるのも変だけど。


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2016年04月16日

20160416 途方もない音

これは僕の友人で某所の高架下にて農業を営む某氏が高架のコンクリートをスコップで掘削し、その穴の一つ一つで苗偶を育てる作業をしていて偶然見つけたかなり古い時代に埋められたタイムカプセルの中に入っていた手紙に書いてあったそうである。



A:サダオカさんがテーマとしていたマスクという物を紙を破いてもう一度被せつつ破いたりして半壊した豚のレザーパンツのような一部だけ分厚いテクスチャの顔や破裂させた血管のネットの上からデッサンを重ねその上からより顔が分離するよう蛍光色を導入しより過激にし血液や色彩の霧が体というより絵の外から『見る側の血液』出ているようにしたりで、そこで、ある新しい感情が芽生えてきたのですが 『無い物と有る物の差を無くす事』




B:無いも有るも一緒ですからね。視る角度の違い、みたいなもんでしょうね。




A:無音と有音の差を無くすにも『角度』があり、ある一音が知覚を遠ざけるよりも先に鋭敏に無音または有音を切り裂かないと普段は科学的に合理的に切り裂きたい対象から遠いはずの混沌なる幻想が、音楽を聞く前の現実感により遠近両用の距離で実際の聴覚『音楽を知る前の生物の耳』を色男が甘い低音で塞ごうが歌姫が金切り立てようが歌詞の意味位しか『耳』は聞いてはいない、現実をより認識する為に音楽の操縦者によるコックピット内で働きかける機械となるのは現実を高度に認識した音楽の『角度』がその全ての『差』を決定していると耳が本能的に狩猟するものだ すなわち『角度』は常に科学を超え、科学を超えうる角度を取り込んだ細胞を自ら進化させ増殖し厳しい規則を与え続ける、これぞ最高の芸術 あっぱれ





その内容に刺激を受けた農家の彼が僕にその手紙のコピーを送ってきてくれたので、その文章のままここにアップした。

これぞ僕の日々考える音楽の何とやらであり、五線譜上に表現などなく、かといってそれ以外のところにも音楽は居場所などなく、やがて届くだろう耳を求めて今もこの世界中を彷徨っているのだろうかと途方もないことを妄想したリと、僕もすごく刺激になりました。

ありがとうございます!!!
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20160416 妄想想像を具現化するの。

今月末の天昇堂でのラディカルな関係の内容と構成やらを日々机の上から布団の上、自転車漕いでもスーパーで新鮮な魚を選ぶ時にも妄想と想像を頭の中で繰り広げられるだけ繰り広げてやっとここ二、三日でその方々に散らかったパーツが収斂していく感じがあり、早々に文章化しようと企んでいます。

当初から写真家の森山大道氏に関して一年間を通して創造するという文句の下に始動しましたが、性でしょうね、どストレートには書けないわ手を伸ばせないわでかなり婉曲的にではありますが、僕が森山さんの写真を通して捉えた人物像の輪郭を少しずつですが触れられたらなぁと思います。

色々と考えを深めていく中で「不在」というキーワードに辿り着きました。

写真家の眼が写真そのものを捉えているはずなのに、いざ写真として僕たちが目の当たりにする時にその当の写真家の存在や眼といったものは写真という構造に不在なのではなかろうかということが気にかかったんです。そこに作家性を持たせるでなく、森山大道という写真家の作品はどれも沈黙と静止が溢れているように感じるんです。

ま、そういったことから自分の経験とかをフィードバックしてきて、半ば無理矢理こじつけたりもしつつ、作品に仕立て上げるといういかにも芸術然とした気概で文章化していきますのでどうぞお楽しみに!

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4月28日(木)春日野道 天昇堂
定岡弘将DRUMS,VOICE 井上歩BASS
開場19時 開演19時半
¥1800


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2016年03月30日

20160330 東京日記2

幾つかの希望と幾つかの後悔を胸に東京からはバスで帰った。前後のどちらかに足がものすごい臭い(口語体で表現するならば「もんすっっごいくせぇぇぇ!」)人が居たみたいで、バスが出発するよりも早く乗車して早々にグロッキーになりました。

バス乗車までの時間は前日のライブの興奮も冷めやらぬまま朝の新宿を西へ東へ南へとホテルがあった北以外は隅々まで歩いて撮影。ホテル周辺歌舞伎町周辺は昨晩に歩き回っていたので省いたが、朝の歌舞伎町というのもまた違っていたのかななんて少し後悔。

そして一番の後悔は新宿西口の思い出横丁にある天ぷらそばを食べ損ねたことだった。つまらないことだが、そんなことが一番の後悔と簡単に言えるほど充実した一泊二日だった。無論ライブの内容も。

ライブ後はバス移動やら電車移動やらでものすごく疲れていたが、こういう時でもないと深夜の新宿にいる機会もなかろうとカメラと缶ビールを手に二時間近く歩き回った。その時にちょうど小腹が空いていた時にその蕎麦屋の前を通りスーツ姿のおっさん達が美味そうにすすっていたのを横目に見て、「お、もりそば美味そう230円か。んーでもまだ飲み足りないし、食べるとしてももうちょっとコッテリしたのがいいなぁ。朝飯にしよう、そうしよう。」なんて思いながら通り過ぎていった。

そして翌日も散々歩き回ってこの店の前に行くと無情にもシャッターは閉じていたのだった。そう。日曜日ということを忘れていたのだった。

思い返せば最初に東京に行ったときにも、早朝の西口にバスが着いて、方角すら分からない状態のままにウロウロと田舎者丸出しで歩いていた時に湯気をモワンモワンなってる中で数人の男達がハフハフ熱いのをすすっていたのが妙に美味しそうで記憶に焼き付いていた。数年越しの蕎麦をやっと食べられると興奮していただけに落ち込みも相当なものだったが、ルミネの裏あたりに以前入った蕎麦屋があったなと思い出して行ってみたら、周辺に三軒ほど立ち食い蕎麦屋がありその内の一軒に入って欲望を満たした。

東京ってああいう立ち食い蕎麦も美味しいですね。値段も関西のそれと変わらないのに全然違う。うどん文化と蕎麦文化の違いもあるんだろうけど、こっちで駅前とかの立ち食い蕎麦屋になんて入ろうもんなら五秒以内に注文できないともう一生できないなと思うくらいの態度に心が折られますからね。というかほぼ行かないんですけど、やっぱり美味しくないっていうイメージがあって入らないんですけど、飯ものよりも腹に良い気はするんでもっと気軽に入りたいんだけどなぁ。あと東京のそういうチェーン店でも呑めるように最近ではアテも充実してるとかで、その方面でも羨ましい限りであります。

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東京でも一緒にやりました野津昌太郎が現在関西に向かっているそうです。高速バス黒帯の彼のことですから、約八時間の移動も充実した時間を過ごしているんでしょうね。僕はまだまだ白帯ですので、五時間を超えたあたりからお尻の感覚が無くなってきたりと大変でした。その野津が帰神中に一緒にするライブの予定です。



3月31日(木)春日野道 ギャラリー神戸天昇堂 
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開場19時 開演19時半 ¥投げ銭

4月4日(月)神戸 BIG APPLE
定岡弘将Drums 野津昌太郎Guitar 井上歩Bass
開場19時 開演19時半
¥2,000(予約) ¥2,200(当日)

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各会場でお待ちしております!
posted by さだおか at 12:50| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

20160327 視点の立つ眼

批評と編集。

それがゼロ年代を経てこれからの表現の視点だと話の分かる人と呑んだ時には口酸っぱく言ってるわけですが、とにかくもう早々オリジナルなんて生まれないという前提に基づいて音楽だけじゃなく、表現一般を考えての現時点での結論である。

模倣と踏襲ばかりがジャズに限らず耳に届く範囲の音楽に見受けられるが、無論それを支持する評価する人が多数いるという需要と供給という面もあるんでしょうが、どうもバランスの悪い傾倒だとずっと思っている。

模倣と踏襲とてある視点に立って考えれば十分批評と編集としてこちらも見受けられるのだけれども、どうもそこまで至らない稚拙な思慮思考で捉えているのではないか?と常々疑問に思う。正直な話、これは同世代くらいの音楽家に関して思うことであって、やはりジャズの華々しい時代に呼吸していた年代のミュージシャンに関してはもう言うまでもない。

今日久しぶりにミックスダウンの作業をしてことさら思ったのだが、音の配置、音色の良し悪し、その他楽曲が完成に至るまで限りない選択と判断を繰り返すが、そのときの判断基準というのが自分のどの感性でどの感覚でということが問題となる。

単に良い音といってもそれはそれは深い問題であることは言うまでもない。持っているビジョンに近づけるのか、それとも録音時の生の音に近いことが良い音なのか、楽曲に相応しい音がそうなのか、その「良い」ということですら尽きない問題だが、僕が思う良い音というのは録音され、音の周波数が電気信号となり、それがまたスピーカーを通して周波数となり耳に届くというライブとは全く別の録音物人工的というか非自然な、音というか生産物としてどこまでuglyでbeautyかという処に寄っている。その根拠となる判断基準にも僕はこれまで聴いてきた音や音楽、自分のバックボーンやインプットされたすべての情報を網目として洗練に洗練を重ねる。

そして何々に似ているから良い、なんて僕はあり得ないのだ。そこで止まらずに、これにこれを敢えて組み合わせたらどうだとか、あえてこの音を配置することで違和感を残せるとかばかり考えてしまうという点では先に書いたことと視点は違えどもこだわっていることに他ならないが、そのこだわりが模倣なのか批評なのかという点では雲泥の差があると僕は考えている。

ここでいう批評というのはいわゆるレビュー的な意味合いではなく、自分のこれまでとこれからを対象となる一点に集中させたときに自分がどう感じ、どう受け取り、どう伝えるかということである。なにも評価するだけが批評ではないと僕はこの言葉を解釈している。


posted by さだおか at 01:32| 兵庫 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

20160318 明日は大泉学園インエフで待ってる。

いよいよ明日になりました。

3月19日(土)大泉学園 in F
「KYOU-SHIN」
加藤一平Gt 野津昌太郎Gt 定岡弘将Ds
開場19時 開演20時
¥2500
東京都練馬区東大泉3丁目4−19
mail in-f.sato[at]nifty.ne.jp 
tel 03−3925−6967
http://in-f.cocolog-nifty.com/



どうも明日の天気は優れないみたいですね。その状態で楽器持って右往左往は厳しいかなと想定していた荷物をもう一度一から組み直すべく一旦全てを広げてそれを鞄に詰めていく作業も一時間以上かかりました。結局シンバル類とボイスエフェクターのみ持参します。その他の荷物なんてパンツと歯ブラシくらいなもんで気楽なもんですが、こういった遠征時にこそつくづくベース以外の楽器の人が羨ましく思う次第です。ベーシストは移動の際の置き場所や、それこそ移動手段すら限定されてしまうので大変やなぁと同情しますが、基本的には自分の楽器さえ持って行けばどんなハコでも自分のコンディションで出来る点ではまた羨ましいなぁと溜め息が出てしまいます。上も下も横もどこ見て比べてもしょうがないですね。


昨日ふとホテルの予約が出来ていたか不安になり確認の電話をしました。電話に出たのは男性で、予約は無事に取れていたのですが、料金のことで質問したところで「ん!?」となることがありました。


例えば僕が泊まる部屋の料金が1980円だとするじゃないですか。だとしたら電話口でその料金を伝える際は「センキューヒャクハチジュウ円でございます」となりますよね。で、さらに例えば1万980円だった場合、「イチマンキューヒャクハチジュウ円」ですよね。もしくは「イチマンとキューヒャクハチジュウ円」って言われてもまだ分かりますよね。ただ、昨日のその男性は先の値段1980円を「イッセンとキューヒャクハチジュウ円でございます」と言ったわけです。

驚嘆することなくただ単に聞き取れずに「え、え、え!?」と取り乱し気味に聞き返しました。するとまた彼は言うわけです。

「イッセンとキューヒャクハチジュウ円でございます
「あー1980円ですね?」
「そうです。イッセンとキューヒャクハチジュウ円」
「・・・。分かり、ました」



「○○と○○」って金額を言う場合、「と」っていうのはandとしての機能はもちろんあるんだけど、「○○飛んで○○」としての機能の方が僕は強いと思っていたので彼が一体何を言いだしたんやと驚きが治まらないままに電話を切りました。大丈夫か?ほとんどの人が聞き返してるんじゃないか?

1万980円でもイチマンとキューヒャクハチジュウ円とは言わんでしょう。僕なら一万98円くらいになればイチマンと〜と言うかもしれないけれどもだ。それでも基本的に対面しないような場合は避けるべき表現だろうなぁなんて憤懣やるかたない気分で来るべきフロントでの応酬に軽く気に病んだのでありました。


とにもかくにも、定岡弘将上京物語新宿〜大泉学園編です。早速明朝は家を出るのが5時過ぎという早朝に緊張感バリバリで眠りにつこうと思います。


是非見に来てくださいね!
posted by さだおか at 23:17| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

20160315 転々の原作

こうして日記のような、極私的な日常を元に文章を書くのも一種のリハビリと思ってやっている。それもこれも現在制作中のセモ大のアルバムのインナーにしたためるかどうか、その他の自主企画等で使う詩を書きたいが為に、である。


一年前の録音を経て、一旦創作という意識は休んだが、それがどうも再始動する気配がないままに数か月、半年、一年と経ち、その都度焦りは増すばかりだったが、今週末の東京のインエフでの野津と加藤一平さんとのライブ「KYOU-SHIN」でも是非書き下ろしたものを使ってボイスパフォーマンスをしたいなと思ったのです。


しかしやはり筆は重く、思うように言葉、それこそ単語すら出て来ないわ繋がらないわで四苦八苦しているのです。今朝方やっと方向性といいますか、こうやって繰り広げるための素材みたいな程度ですから創作物としては脆弱極まりないものですが、久し振りに形になりつつあるかなぁという感触を持ちました。それもこれも昨日このブログに恥ずかしげもなく長い文章を書いたこともあってではないのかなと思ったりもしていて、今日は是非、本当は昨日書きたかったことに関して書いていこうと思う所存であります。枕が長くなりましたな(笑)



以前も書きましたが僕は「転々」という映画が大好きで、ことあるごとに見返しては「いいなぁいいなぁ」とエンドロールに流れるムーンライダースの「髭とバルコニー」で涙を浮かべるのです。エンドロールに原作者の名前と出版社があり、こんだけ好きな話だからこれは一度読んでもいいなと思い図書館に行きました。元々僕は映画が良くても原作は読む気はなく、また逆に好きな小説が映画化されてもそれを観賞するなんてことは意図的にしてきませんでした。どっちがどっちでも、先に感動したものを越すような感動はそれらから得られないと思うからです。先に書きますが、残念ながらこの「転々」も映画ほど、いや小説(「転々」藤田宜永著)としてすらまったく魅力のない作品のように僕には感じられました。


登場した人物が全て結果的に縁者であったこと。
無理にねじ込まれたかのような性描写シーン。
福原の妻の描き方。
会話一つ一つは魅力的なところもあったが、どうしても説明の部分とその人物の言葉との温度差。
オチなんて読むのも嫌なくらいでした。

まぁ列挙するとまだまだありますが、とにかく僕は映画の「転々」は三木聡という人間の作品クオリティを改めて驚くのでした。


やっぱり福原が東京を歩くということにした理由である妻の存在と、その妻のその後といいますか、その人物にもやはり関わっていた人間たちがいるわけで、その人たちが福原妻が不在となることで日常からすこしずつ日常ではない日常へと意向することを描くことでただただ散歩の理由としての存在ではなく、話のリズムを生むのに役立っていると思います。

三木版でも会話の基本形は藤田版を元に脚本家されていますが、三木版は途中から話を変えています。そこが映画のもっとも良いところといいますか、文哉が経験することがなかった家族の団欒ということへの慕情がじわりじわりと滲み出てくるわけで、藤田版ではそういう欠落した記憶と体験を取り戻すことも出来なければ、その当事者である母親が登場するという最悪の流れにして話を蹴散らして終わります。そうじゃないんですよ、「転々」という話は!と原作者に対して文句を言うなんてお門違いもいいとこなんですけどね(笑)


そして何よりも、この話は東京の街で思い出のある場所や過去の自分の帰路や今の人生に至る決定的な人や出来事があった所への散歩することで喪失と欠落を再確認し、それでも生きてこれたしこれからも生きていくのだ。それこそ数多くの街や人を転々としながら今までもこれからも自分は自分でしかないと確信と失望の両方を背負っていくしかないということがこの話の全てだと僕は思うんです。それが藤田版では全然未来が見えないんです。過去と向き合うでもなく、過去に捨て去った人間関係にいまだに縛られていたことに気付くだけで、文哉も福原も報われないんですよ。


その点三木版は決して幸福ではないが、あくまでも未来に繋がっていく今を確かに描いていると僕には感じられます。しかしそこは三木作品独特の飄々さというか、重いものをあっさりではあるが確かに重く描く感じというのがもの凄く良いバランスで出来上がってると思います。


んー。これ読んだだけじゃ全然分かんないと思うんで、レンタルや図書館でいいので是非見てみて下さい。映画版も一回見ただけじゃポカーンだと思いますし、三木作品未見の人からすれば差し込まれてくる三木ジョークに戸惑うことは必至だと思いますが、キョンキョンとオダギリジョーがここまで魅力的な作品もないわけではないですがー(笑)素敵なんですよ!そ・し・て!東京という生物のような巨大な都市が魅力的で魅力的で、もーって感じです。


僕にとって東京とはこの転々と寅さんシリーズとアラーキーと森山大道とナンバーガールなんです。僕にはとても住めたような街ではないと思いますが、外の人間が興味本位で時折ふらっと混じり込んでは数日で抜け出すにはちょうどいい街ではないかと思います。そういう点でも週末の東京、特に宿泊地は新宿にしましたので、ライブ後の真夜中の新宿をカメラを手に歩きまわるのも楽しみでしかたないんです。


東京の中に自分を見つけられるのか。自分の中に東京は見つけられるのか。そういう裏テーマも野津には内緒で持っていたりするんです。
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2016年03月14日

20160314 春故

毎週とは言い過ぎだが、二週間に一回は必ず図書館に通っている。そらそうだ。図書館で借りた本は二週間で返すのがルールだ。それでも今までの生涯で一番図書館を利用しているような気がする。いや、地元にいた時分にも毎週日曜日は図書館に行っていた記憶がある。


確か高校三年の冬。同学年の多くの人が受験勉強だ何だと図書館の自習スペースでカリカリとシャー芯を減らしていた頃、僕はといえばつげ義春の全集や動物のお医者さん、手塚治虫の漫画等を読み漁り、007のビデオを借りて帰ったりしていた。そしてまだまだジャズに夢中だったのでそれに関する書籍も探してよく借りていた。


図書館通いの目的はそういったこともあるが、自習している同級生の顔を遠目にチラリと見ては本を探すフリみたいなことをしてはチラリと見る、みたいなことをしていた。男であれ、女であれだ。変な意味でなく、あれは特に恋心といった心情ではなく、それまで同じ授業や同じクラブ活動をしていた同級生が将来を自らの手で手繰り寄せようとする彼ら彼女らを遠くに感じて寂しかったのだろう。でも互いに話しかけることもせず、チラリと見てはまたそれぞれの過ごすべき時間に集中していくという感じ。図書館の中は暖房が効いていて暖かいのに、外に出た瞬間に風が冷たく、乱雑に置き並べられた自転車置き場その中から自分の自転車のところへ迷うこともなく歩き、鼻歌のひとつでも歌いながら家路についた。


実家は田舎の一戸建てで、一回には精肉屋の仕事場もあった。ちょうどその仕事場の真上の部屋が元応接間のようになっていてそこにドラムセットを組んでおいていた。平日は学校から帰ってきて、下の仕事が終わる18時頃から21時前まで叩いていいと暗黙のルールがあった。肉屋が休みの日は昼間っから叩いていた。バンドの練習もそこで普通にやっていた。さぞかし近所は迷惑だったろうと今では思うが、その当時は「叩いてないと風邪でもひぃてんのか思ってた」と近所のおばさんから言われたりもしたし、同級生たちも帰りの遅い運動部の女の子には家から数百メートル離れたところからでもあんたの音聴こえてたと言われたこともあった。


あれ、なんでこんなこと書いてるんだろうか?今日は前に書いた「転々」という映画の原作を読んだからそれに関して書こうと思っていたのに、思わず図書館によく通っているっていうところから懐かしい記憶がフラッシュバックしてしまい、書きたかったことが書けないほど遠くまで流れてきてしまった。んー。転々のことはまた後日書くとして、今はこの生理に任せてもう少しだけ書いて締めようと思う。


そうか春なんだな。三月のこの時期は少し気分が不安定になってしまう。それでも年々和らいできてはいるが、どうも高校卒業して神戸に出てくるまでのあの宙ぶらりんの時期を思い返してしまう。中学生から高校生に進学した時も然り。とりあえず進学先での準備が出来るだけの十分な時間はあるのに何をすればいいのか分からない、なのに学校から送られてきている予定表にはレクリエーションやら何やら聞きなれない言葉が並んでいたり、まだ見ぬ同級生たちと仲良くなれるのかとか思いを馳せたものだった。


昼間に学生みたいな子たちが何人かで自転車でうろついてるのを見ると、彼らもまさにその時なんだなと思って少し目を細めてしまう自分はもう帰れない時間をどうにかしようと考えることもなく、今となってはこの3月の前後は確定申告だ税金だと気に病んでしまうようなことが身に付いてしまった。当時のような不安はないが、もっと具体的で且つ漠然とした不安が胸を抉る。それはそれで悪くはないが、もうこの時期しか遊べないし、なんて理由で自由を謳歌するなんてこともないんだろう。


今朝ふと思ったことがあり、それはまた後日書こうと思っていたことがふと去来してこんなことを書いてしまっている。恥ずかしい限りだが、それも春故にと気を紛らわせながら読んでくれたら幸いです。


中学生の時なんてクラブに授業に高校受験だ内申書だと学校にいてる間は学生服の詰襟のように息苦しく、一日も早く大人になりたいと、音楽のプロになりたいと日々悶々としていた。

高校生の時には付き合ったりフラれたりと年相応の恋愛も経験して青春を満喫していたし、ジャズにも出会い、それまでのドラミングや音楽への気持ちを転換させていたので毎日授業はあれとして、部活と家での練習は夢中になってやっていてあっという間の三年間だった。あまりに楽しく、あまりにのびのびと過ごせたのはあの校風があるのだろうが、何よりも部活が生徒主体で運営していたことが大きかったと思う。そこで僕は良くも悪くも今の根底にあるアイデンティティーをすくすくと育んでいっていたのだろう。

友達は少ない方だったが、一人一人とはしっかりと付き合っていたので寂しさは全くなかった。それぞれにやりたいこともあったので休日は特に会うことはなかったが、学校がある朝は特に約束もしてないのに同じ時間帯に通学していた。暗黙の了解ほどの負担もなく、互いに都合が良い時間が一緒だっただけなのだが、そんな通学の時間は大好きだった。帰りは部活の先輩や後輩と帰ったり、遠回りしてその当時付き合っていた恋人をバス停まで送っていったりもした。

そんな時間、そんな記憶、もう二度とは経験できないんだけど、あの当時は早く過ぎてほしいという気持ちのほうが断然大きかったし、もうこんな過ごし方は出来ないだなんて考える暇もないほどに夢中だった。

今更戻りたいとかまた味わいたいとか思わないが、どうしても朝に散歩していると通学路を急ぐ彼や彼女たちを目にしては少し掻き立てられるものがあるのも本当だ。


春なんて来ない方がいい。でも春が来てくれなきゃこんなこと考えることもない。そんなことをぼんやりと思ったりしていた。






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2016年02月29日

20160228 尼崎にて

起きてすぐカーテンと窓を開ける、澄んだ空気が部屋へ流れ込み、見上げた空の具合に「今日はボート」と言われたような気がして、早々に着替えて阪神電車に飛び乗った。

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3Rから7Rまで、一切勝つことはなく財布からスカンピンの気配がひしひしと感じられたが8Rにて逆転ホームラン。額は前日の呑み代が無かったことになった程度だったが、ボートでそれくらい出たら十分である。

尼崎で一番気を付けなければならないのは、会場にいるおっさんおばはんの約80%は野犬のような目をしているので、安易に一喜一憂しているものなら噛みつかれるので、例え舟券をとったところで奥歯を噛み締め腹の中でパンパカパーンと叫ぶしかない。

僕が8Rで「そのまま!そのまま!5逃げろ!絶対カーブ流れんな!」と必死になっていたとき、すぐ隣に座っていたおっさんがまだボートが一周目を回ったところにも関わらず、持っていた鉛筆と舟券をビリビリに破り捨てていた。その眼は一瞬遠くを見つめ、その後酒臭い息を吐き出し、被っていたキャップを深く被りなおした。あまりにも絵になりすぎたのだった。

その後JRまで歩くも、歓びの缶チューハイを手にしていたのでカメラは鞄の中にしまっていたのだった。
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2016年02月25日

20160225 生活のまま

ふと写真の整理をしていて昨年末に撮っただろう実家のリビングでの一枚を見て作業が止まった。

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写真を何のために撮るのか、という自問自答は写真機を手にする者ならすべからく抱くことだろうが、僕自身は気の向いたときや非日常的であったり超生活的な状況に赴くとき軽やかにでも重々しく街や往来を写し、それは自分の眼と目が何を見て何に見られているのかということと、街と時間とのアンサンブルのような気分で撮ってきていたが、この一枚の写真を見てそれは間違っていた、もしくは気取っていたなと反省をした。

妹の娘、つまりは僕の姪はまだ三歳にもならず、カメラを向けるとポーズをとってくれるので嬉しくて可愛くて何枚も撮ってきていた。それを時系列にそって並べていたらこの一枚が混ざっていたのだった。あとす何年かすればこの写真に写る祖父は亡くなっているかもしれないし、かという自分自身でさえもどうかは分からないのだけれども、その場にいた人たち、それに関わる人たちには間違いなく2015年の年末の記録というこの一枚によって残像ではなく記憶としてフラッシュバックしてくるのだろうと思ったのだった。

明日にはなく、昨日にもない今だけを記録として写し止められるのが写真のすべてではないかと思ったのであります。

いつかこの写真を見て号泣する日が来るのだろうなと思うわけ。それだけでいい。

生々しい生活の写真は見るに堪えがたいが、こうしていち風景として切り取られた写真はただの記録ではあるが記録という装置を越えたものがあるのではないだろうかと思ったのでした。


いつからだろう、カメラを初めて買ったのは。ああ、五年以上前に東京に観光旅行に行くときに買ったんだったかな。それから色々ととりとめもなく撮り始め、今では一眼レフを手にしている。撮った写真からフライヤーのほとんどを制作し、facebookの方にはアルバム別に事あるごとに撮ってきた記憶の記録があげてある。ぜひそちらも見てほしいと思いますが、こうして自然と自分の表現の一部に身体的に精神的になっていったのは写真と言葉(詩)だけかもしれないなと最近思うわけ。音楽なんて嫌々やっているわけではないが、もっと重々しく考えていると同時にもっとテキトーにも考えている。生活そのもの、みたいな感じかな。その点、写真や言葉は自分の中に集積したことの表出という感じがもろにある。どちらも自然だが、それぞれに感触は違うのです。
posted by さだおか at 10:13| 兵庫 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

20160222 耳に入る言葉

所用があって近所の警察署に行ってきた。警察署というのは入った瞬間に少し圧を感じますね。こちらが一方的に感じてるのか、あの情感の皆無な深い紺色の制服がかもすものなのかははっきりとは断定出来るものではありませんが、受付で待ってる時とかもぼぉ〜っと事務作業や何やと働いてる警察署の人々を見てただけなのに「何じっと見てんだ!?逮捕するぞ!」と言われかねないと思ってしまいます。指名手配や行方不明の人々の顔写真も特に興味もなく時間つぶし程度に下手に見ていただけなのに「何じっと見てんだ!?何か知ってんのか!」と言われちゃうかもななんて思ってひたすら中空を見つめていました。まさしく虚無なり!

諸々の手続きのために書類に書き込んだり目を通していると、僕の背中の方に自販機や長椅子が並び、その並びに一枚の仕切り板で仕切って机と椅子があり、そこで制服の警官とスーツ姿の男性がたくさんの書類を机に並べてああだこうだ話していた。後ろで会話に耳を澄ますほど野暮ではないが、二人して結構な声の大きさで、フロアにいる人には否が応でも耳に入るような状態だった。「打ち合わせや大切な話ならもっと適切な場所があるんでないかい?」と思いつつ自分の用事に集中しようとしたときにその言葉がスーツの男性から発せられたのだった。

スーツ「その通りに牧伸二事務所があってどうのこうの」
警官「なるほどね。でもどうのこうの」
スーツ「道幅は広いんだけど路上駐車とか諸々がどうのこうの」
警官「で、そこは神輿はどうのこうの」
スーツ「神輿も三台でどうのこうの」
警官「神輿は止まるの動きっぱなしなの?」
スーツ「牧伸二がどうのこうの」


話を聞く限り、どうやら牧伸二さんが往来で神輿を三台使ってイベントをするからその為の許可の申請に来ている模様だったが、実際の会話ではもっと「牧伸二」という単語が乱発され、しまいには「牧伸待ち」という状態でそのスーツの男性(恐らく事務所の人間かイベント企画会社の担当者)の確信を以って説明出来ることが少ないのだと警官に話していた。

近々牧伸二さんがものすごいイベントをぶちかますのだなとファンなら発狂するだろう情報がわざわざあんな場所(正面入口入ってすぐ)の位置で交わされるという場に居合わせた自分に「ほらやっぱり持ってんだわ。因果だよ、因果」と思いつつ、所用はつつがなく終わり、帰り道はいつも以上に慎重に気を付けながら帰ったのであった。

posted by さだおか at 13:26| 兵庫 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20160221 東京にて。

来月は東京に行きます。

2016.3.19(土)
@大泉学園 in F
「KYOU-SHIN」
with 加藤一平Gt 野津昌太郎Gt
開場19:00 開演20:00
¥2500
東京都練馬区東大泉3丁目4−19
[お問い合わせ]
mail in-f.sato[at]nifty.ne.jp 
tel 03−3925−6967

青春18きっぷで行こうということでこの日程(使用期間)になったわけですが、いざ移動を想像した時に楽器や多少の荷物を持っての乗り換え等は非常に面倒だなと思い、いろいろと考えた末に高速バス移動で向かうことにしました。30歳になってやっと20歳前後の活動力といいますか、活動性を持ったなと思いつつ、このペースじゃ一体何歳になったら新幹線移動で西に東にと演奏しに行けるのか、なんてこと考えると暗くなるだけですので今は目の前のスケジュールをしっかりとパフォーマンスし、「またお願いします」と次回のライブを決めてから店を出られるようにすることがその一歩だなと思いやっております。

関西方面の読者の方々、どうぞ宜しくお願い致します。
posted by さだおか at 00:11| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

20160216 そして前の続き。

今日は今月に入ってようやく初めてのミックスダウンをしました。先月末から体調を崩し、二週間を過ぎても咳が残っていたりと全快とは呼べないような体調のまま過ごしていました。それは愛媛でもしかり。ホテルも移動中もマスクをして喉のケアをするという周到ぶりでした。自らの身体の経年変化に適応して不調さをどうにかこうにかやり過ごす方法なんて結局は少しでも不調を感じたら病院に行く、薬を飲む、住環境を整える、ほっとけばどうにかなるなんてもう今後一切思わない(ただし祈るのは有り)というふうに若さや丈夫さと引き換えに金でバランスを取ろうということになるわけだけども、二十歳のころから一切の収入変化のないこの身にはなかなか厳しいものがあります。とはいえ若い時ほど物欲めいたものもなく、これといって贅沢をする趣味もないので「あぁこうやって細々と細々と、粛々に粛々を重ねて生きては死んでゆくのだな」なんてポエミーな心情になったりするのです。


本能的といいましょうか、簡単にいえば欲望、それがここ数日はたぎっています。それもニンニクに。これも考えようによっちゃ肉体が元気になってきたから刺激の強いものを受け入れる体制になってんだよこっちは!と教えてくれているのかもしれません。僕はこういう食べたいう衝動には従順にしています。無理に食べるのは良くないときもあるが、食べたいと思うときに止める方が良くないと思うからです。


そういえばまだまだ絵に描いたような病床生活を送っていた数日に、衝動的に「時効警察」というドラマを見ました。

元々好きなドラマだったのですが、最近はご無沙汰でした。
寝ている間もPCやらでDVD見たりYouTube見たりとしていて、普段見ているバラエティやそういったものは少ししんどいなとあのときは思ったのでしょう、ですからゆるくてのんびりした三木聡作品が非常に肉体にも精神にもフィットしたのでした。

三木聡さんの数々の監督作品、作演出作品の中でも特に大好きというだけでなく、映画の中でもベスト5に入るだろうくらい好きなのが「転々」という作品です。それこそシティボーイズ時代の数々の名作ネタやセリフ等も知った上で言いますが、この映画こそシティボーイズ時代の総決算のように思います。無論、当のコントではシティボーイズ・ライブ1998年公演「真空報告官大運動会」ではないかと思いますが、みなさまいかがでしょうか?

「転々」の内容は各々調べるなり観るなりしてもらうとして、僕がなぜこの映画が好きかといえば物語や会話のやり取りから感じられる情感の引き出しとそこに寄り添うような音楽の絶の妙な加減、そして決して下品さを伴わない笑いのあり方ですね。喜劇作家としての欲望と衝動を高いモラル意識と美意識によってコントロールしているところが、僕の大好きな宮沢章夫さんにも通じる点ではないでしょうか。そしてお二方とも妥協のだの字もしらないかのように自らが構築した世界の中でだけで役者のみならず観客や読者が動くように完璧なホンを用意されている点も書き落とすわけにはいきません。

一見のほほんとし、飄々と自分の表現をしている人間ほど目に見えない(表には出ない)ところでは厳しく怖い人ではないだろうかと僕は思います。それは三木作品に欠かせない役者である岩松了さんも然り、アラーキー氏然り、顔は笑っていても全然目は笑ってなかったりしますからね。なんとなくその理由もわかるんです。今は笑ってるけど、その前後関係や、もっと遠い未来に抱いている絶望に今も侵食されているからだと思います。優しい人は悲しい人なんですよ。慈悲を知る人は皆孤独です。

それになんといってもエンドロールで流れるムーンライダースの「髭と口紅とバルコニー」の素晴らしさ!

全ての悲しみや寂しさやらを噛み締めてそれでも歩いていくしかない。二人の大人の男が過去を振り返りつつも決して甘く懐かしんだりするのではなく、あくまでも苦々しい現実と未来に進むだけの理由にすがろうとするように思い出の街を、東京を散歩する。東京なんて住んだことない僕だけども、他の街にはない生きてきた人々の形跡や亡き骸は相当なもので、それを一足一足特別な感慨はなくとも噛み締めつつ踏んで蹴って進んで行く。
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2016年02月15日

20160215 今治松山2DAYSより帰宅。

マリー大本さんの企画に呼ばれ、今治と松山でライブをしてきました。

連日たくさんのお客さんにお越しいただき、感謝感激雨あられでございました。

お越しいただいた皆様、神戸洋酒館倶楽部とJAZZ IN GRETSCHの店主やスタッフの方々、共演したピアノストの武田玄也さん、そして企画していただいただけでなく全ての準備や環境を整えてくれたマリーさんに心から感謝を伝えたいと思います。ありがとうございました。

いろいろと二泊三日の出来事や思い出や感想等語ることも出来ましょうが、明文化することで取りこぼしてしまうこともあるし、なにより野暮ではないかと思います。すべては目の当たりにされた方々と言葉や音を交わした者たちの記憶にあることだけでいいかなと思いますので、この場では敢えて避けさしていただきます。直接会って話したいというのもありますし、どうか飲み屋で会った時にでも話しましょうかね。




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最終日の松山散策での収穫とライブにお越しいただいた素敵な方々からいただいたものです。

ホテルのすぐ近くに地酒だけを扱った酒店があり、有料試飲も出来たので数々の蔵元をお猪口一杯ずつ飲んで特に気に入ったものを買って帰ってきました。「石鎚」という蔵がどうも一番人気のような印象です。「千代の亀」という蔵のしぼりたてがまさに僕の好みにドンピシャでそれと二本買いました。

お世話になったマリーさんには神戸のお酒を、春日野道でお世話になってる方には松山のお酒を手土産にしました。そういう交流といいますか、それぞれに土地のものを持ち込み、また持ち帰るということが出来るのでこういう機会は本当に嬉しかったですね。


そして言葉では語りませんが、撮影した写真の一部で二泊三日の今治松山の旅を感じ取ってもらえたらと思います。その他のすべての写真はFacebookの方で公開しますので、是非そちらもご覧ください。「サダオカヒロマサ」でやっています。そちらもどうぞ宜しくお願い致します。

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来月は東京に行きます。
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2016年02月12日

20160212

前回の続き。

チャールズミンガスがふと聴きたくなってというか、ミンガスのバンドにいるドルフィーが見たくて映像を引っ張り出して見てたんだけど、その時まで思いこんでたミンガスへのイメージみたいなものがガラガラと崩壊したわけです。

それまではサウンドも思想も真っ黒で、最高に強硬なビートを杭を打ち付けるみたいに演奏するってくらいだった。恥ずかしながら何枚もCD持っときながらその特異性が際立った作品群を愛聴するまではいかずに引っ越しの時に多くを手放したんだけども、それを今改めて買い直そうかとAmazonやら中古市場やらを横目に算段を立ててるわけ。それくらいの衝撃というか、反省をしましたね。はい。

まずミンガスはバンドリーダーとしての風格と姿にしびれた。リーダーってのはある意味独裁者で、同時に革命者じゃなきゃいけないと思うわけです。破壊と創造なんて陳腐なもんじゃなく、自分が絶対的だと声高に主張しながら、同じくらい自らに不信であり、その脆弱で屈強な精神と肉体のバランスの結晶みたいな人だけがリーダーとしての風格を所有できるのだろうと僕は思うんです。無論、自分以上にメンバーに対しては厳しくも優しい。それは信じているけど信じていないから。そんな矛盾を隠そうともせずその瞬間の自らの判断に真っ直ぐに突き進むからミンガスを格好良いと感じたのでしょう。

それに相棒であるダニーリッチモンドが大好きでね。あまり公言しませんが、あの人のドラムが大好きでコピーもしました。そのリッチモンドの眼つきの非現実感といったらないっすね。あの時代のジャズの映像観てたら全員とまでは言わないにしても音は当然のこと眼つきや雰囲気がキレッキレなんですよ。キレッキレでキワッキワ。近づくと切れちゃうってくらい危ない雰囲気を醸しているけどあれってなんでなんでしょうね。ドラッグがどうのこうのは置いといて。

完成された楽曲をそれぞれに必要な情報を最小限だけ伝え、演奏の場でミンガスの判断で即興的に組み立てたりぶち壊したりとアンサンブル自体の可能性を大いに拡大解釈した手法でバンドの個々のサウンドも引きたてつつ、安定のミンガスサウンドはあるっていう、エリントンの手法といいますか、音楽を考えるときにエリントンをフィルターにしてるのは容易に想像出来るわけです。それでいてその時々をあくまでも未完成でこそという思想も感じられるわけ。次回作への準備と体操なんだと言わんばかりに演奏は縦横無尽臨機応変。気分次第では止めるしね。

ミンガスの脳内で演奏と作曲って言うのが同時進行で流れていて、次に弾く音ともっと先で弾く音が肥大と縮小をしてる宇宙みたいに蠢いてるんでしょうね。で、それを一緒にやってるメンバーにも当然理解して欲しい、というかお前らにも次のサウンドは聴こえてるんだろ!?だったらそれやらんかい!と求めるんだけど、やっぱりメンバーはメンバーでミンガスの頭とは別の頭で生きてるわけだから、ミンガスはリフを歌うし(叫ぶし)、演奏中に指示や激を飛ばすのだろうと。でもそれはバンドという生命体では切なくも切実な問題なんですよ。一体感とは主体者の思想やイメージの連携や共有ではなく、あくまでもそれぞれの主体が一面的であれそれぞれのイメージや思想と触れ合っているかどうかなんだと思うんです。その為にリハがあるだろうと思うし、大袈裟な話、それさえ成立していれば演奏なんてバラバラでもバラバラには聴こえないと思います。グルーヴというかパルスというか磁場というかそういう波動が必ず伝わってくるだろうし、それが上に書いたミンガスの映像にはあったし、例えドルフィーがバスクラを独奏していてもそのすぐ背後にはミンガスやリッチモンドが自分の居場所を求めて呼吸を整えていたりするわけで、個人でありながら何かの一部になるっていうのは想像は容易いけど実際にしようってなるととても困難なことなのかもしれません。

そうか。切ないから、切実だから即興を信仰するジャズミュージシャンたちのライブの映像はキワッキワでキレッキレなのかと強引にオチっぽくしようとした自分に嫌気もしてんですけど、やっぱりそうなのかもなぁと思う自分もいるんです。即興ということが現代というジャズでは組み合わせと反応速度の離合集散でしかないように感じられるのは、原理と修習との差と簡単にいえれば絶望の果てを見るだけで済むんだけども、かつての華やかさを知る人たちも同時代にいるわけで、そこで絶対的に分かり合えない深い深い溝ってのはあると思いますし、そこを無視して安易にジャズってものを愛してるなんて言えるわけないだろう!と思ったりしてます。

なんだかちょっと長く書きすぎたな。ミンガスの魅力ってのは当初に抱いてたことは間違ってはいなんだけども、ちゃんと時系列と前後関係を勉強した上で改めてってなると、元々感じていた特異性はジャズという音楽の固有の成分だったと気づいたんでしょうね。病に伏せってなかったらゆっくりとじっくりと音楽を堪能するなんて聴き方最近はしてなかったなと反省もしつつ、それに気付けただけ今回の風邪もひいた甲斐があったなと思ったりしています。
posted by さだおか at 08:01| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする