2016年07月29日

20160729 セッションに行ってきた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」


春日野道から自転車で約30分。岡本のボーンフリーで毎月やっている柏谷淳さん主催のセッションに行ってきた。最近だいぶジャズというものが体に入ってきて楽しいと思うから、もっとライブや仕事の依頼が入ったら嬉しいな嬉しいな、そのためにジャズミュージシャンにとっては就職活動の場とも称されるジャムセッションに行ってみようと思ったのだった。神戸に来たての18,19歳の頃の積極的に行っていた気分や心情で行ってみたのだった。


結果、感想を言葉にすると危うい。だが誤解を生じさせるギリギリまで言語化するならば、「結局ジャズって何なんだ?」という煩悶を胸にいくつかの川を越えて、深夜の二号線を西に漕いでいた。そう。まさに冒頭の一行目の心情である。


あのセッション自体がどういうあり方を望んでいるかは知らないが、セッションというものが音での交流を主体とせず、酒を交わして言葉を有しての交流の場であるとしたら、僕のような性格の者は立つ瀬がないと感じた。昔はもっと素直で、もっと純朴にいわゆる業界に入りたいという思いが強くあったので、必ず名刺を持参して、はじめましての方には積極的に配ったりしたが、十年経った今ではその点での積極性も薄れてしまった。というか、名刺を持参しなきゃという思い以上に、演奏頑張るぞ!という気合の方が強くなりすぎてしまっていたようにも思う。その点は反省しているが、ジャズって結局何なのかなぁ。


いわゆるジャズスタンダードを元にアドリブを展開をすればジャズか、というとそれは違うと思う。


とはいえホストのドラマーの佐藤さんと遊びに来ていた清水さんの人柄は優しくて素敵だった。そういう人柄がそのまま音やアンサンブルに出ていて羨ましかった。それに比べて僕は暗く、卑屈だなぁと思ってしまった。あの人たちのような分かりやすい優しさが表出していれば今の僕の技量でももう少しは依頼があるのだろうなぁと想像したが、それがもう卑屈だ。

甲陽に行っていたときに、アンサンブルの授業でピアニストの竹下さんに「君は冷たいよな」と言われたことがずっと胸に残っている。確かに自分でも他人のバッキング時に「今の冷たく感じられてもしょうがないよな」と瞬間的に反芻することがある。特にベースとの関係性において、僕は冷淡極まりない態度を取っていると思われても仕方がない。基本的には「勝手にやってくれ、僕も勝手にやるから」というスタンスだからだ。


僕がジャズを愛しているが、同等に憎んでいるのも今日書いたことの根底の部分にある。どう読み解くかは自由。音楽、ジャズとはいえ最後は人の所業であって、音符やメロディーがすべてではない。帰宅し、そう自分を言い聞かせながら昼間に作った豚ミンチのレタス巻きを食べながら焼酎を食らって眠った。


これからも予定が合えば色々とセッションには行こうと思っている。日々就活である。
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20160729 セッティング写真

近々のライブやセッションにて、セッティングした様子を撮影した。

忘備録というほどでもないが、僕自身がドラムキッズだった頃は色々な音楽雑誌やドラム専門誌に様々なライブレポートでの写真を見て、そのドラマーのセッティングを穴が開くまで見たものだ。そのセッティングを見ただけで、大体のそのドラマーの身体性が想像できるわけだ。その様子が美しい人の方がやはりドラミングも自ずと美しいものであるという持論がある。

個性は音が鳴る前にもう発露している。

ライブを見に行って、ギタリストでもないのに足元のエフェクター類を見て胸が高まることってあるじゃないですか。そういう気分で見てくれたら幸いです。



芦屋ejにて。
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元町 萬屋宗兵衛にて。
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明石POCHIにて。
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椅子を最近高くした。その方が下半身に体重を乗せられる気がしたからだ。シンバル類を低くしているのも同じく体重問題からだ。音を鳴らすためにはまず体の動きや使い方を考えるべきで、スティックを持つのはその後でいい。視点と耳の位置。腕の軌道と下半身とが腰を支点に縦と横の運動の連動をいかに果たせるかが問題だろうと考えている。
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2016年07月22日

20160722 

今週末はセッションをやっております。お気軽にお越しくださいませ!


22日(金)元町 萬屋宗兵衛 ジャムセッション
葭葉愛子Piano 武村一輝Bass 定岡弘将Drums
開場19時 開演19時半
社会人¥1000 / 学生•プロ ¥500
観覧のみノーチャージ・チップ制
http://www.soubei.co/


24日(日)明石POCHI スペシャルジャムセッション
高橋俊男Piano 泉正浩Bass 定岡弘将Drums
開場18時半 開演19時
¥1860
http://www.pochi-live.com/


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2016年07月18日

20170718

婆さん入院につき一人で過ごすおじんの寂しい食卓はしのびないと思い、帰るのを一日遅くした。

昨日は海に行き泥酔し、思わず猛る気持ちのままに長文のメールを某近石さんに送り付けたら、反射的速度でその三倍は長いメールが約十分ごとに計六通届いた。

どのメールも内容も非常に素晴らしく。音楽というもので人生が狂ってしまっているのがありありと伝わった。音楽の話なのに科学と文学にすぐシフトする感性が、本当に音楽というものを勉強しようと、勉強してきたのだなぁといつもながら感心してしまう。

色々と割愛するが、「サダオカ氏の音楽はもっともモーゼ自身の意識にあると私は推測している」ということらしい。ディラックの海、0次元に憑かれているのだろう、とのこと。なんのこっちゃ。

閑話休題。

そんなおじんとの昨日の夕飯時の会話。

僕「明日は何時に婆さんとこ行くんで?」

おじん「昼前から行こか」

僕「それやったら僕12時前に学校行くから、行きしなに降ろして、小一時間打ち合わせするだけやから13時過ぎに迎いに行こか」

おじん「そないしょうか。またちゃんと飯の時に顔出しとかんと帰って来てからブツブツ言われたらかなんから」

僕「なんでよ?」

おじん「わしが入院したとき三食食べさしに来ょった(キョッタと発音)から、私のときはあんた来んのか言われたらかなんから」

僕「ふーん」

かれこれ五十年以上夫婦として暮らしていても、いまだにそういう水面下での駆け引きはあるのか・・・。男と女という生き物の共生というものほど文化というものが無いものかと独身の僕は呆然しながら芋焼酎の水割りを呑んですぐ考えるのをやめたのだった。

婆さんは無理矢理にでも、それこそじいさんに拒否する間を与えないくらい喋り倒して野菜を食わすのだが、婆さんのいない食卓でおじんはのびのびと好きなものだけ食っている。今日も少し傷みかけたオクラ(沖縄の赤オクラ)があるから食べてと婆さんにことづかっていたので、オクラを湯がいてから刻み始めた瞬間、絶妙な間と声量、もうそれは落語の達人のような「わしオクラ要らんで」という言葉が僕の背中に投げかけられた。爺さんの野菜嫌いは野球なら王貞治クラスやな
と感心しながら自分だけ盛り付けたのだった。
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2016年07月16日

20160716 夏

祖母が手術を受けるというので入院したので、見舞いに帰ってきている。

新しい県立病院からの眺めが壮観で、もう二週間ほど後に入院しとれば花火見るの最高やのになぁと祖父に話したりしていたが、手術後の祖母は非常に苦しそうで、祖父曰く「もうあかんのとちゃうか?」という状態で管という管が体に入り、また出ていた。

一応というか、ちゃんとカメラも持っていてたのだが、その普段とはかけ離れた姿に三歳の姪共々戸惑ってしまいとうとう出すことが出来ないかった。意気地がないなと思った。

そういうときに撮ってこそだろ!?と自分を鍛え上げていたはずだし、家族としてもそんなときにも写真を撮る僕に対して特別な感情を抱くことはないだろうけども、僕の方から予防線というか、人としてどうなんだ?という一種のモラルのようなもので体が動かなかくなったんだと思う。病院を出てすぐの交差点が「海岸通」で、その看板を見たときにいろんな想いが駆け巡って涙が出そうになったので、精神も抑え込まれてしまっていたんだなと思った。

アジカンにも「海岸通り」っていう曲ありましたけど、良い言葉だなと思いました。情緒があるし、この道を行けば海に対面することが出来るんだろうなという気分が出ているし、その通りにある店々はある意味海という存在で食っているようなもので、その点に悲喜こもごもの生活が思い浮かぶし、何より海水の成分を孕んだ少し切ない風が吹いてそうじゃないか。

その後姪をいつも酒を呑んでいる大浜海岸で接待。目的が違うと海にすら感じるものが変化していて面白かった。

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2016年07月13日

20160713 日記的に。

先週だっただろうか、暑くて蒸し蒸しして頭の働きが当社比60%の機能で暮らしているので記憶が定かではないが、餃子を作って食べた。それも皮から作ってだ。

そもそもはあるテレビ番組で、森三中の大島さんが美味しそうに餃子を頬張っている姿を見ながら夜中に酒を飲んでいた。その時は適当に柿ピーで飲んでいたが、我慢堪らずにクックパッドを見て冷蔵庫の野菜室に白菜とキャベツが少し残っていたのを確認し、ネットで近所のスーパーの広告をチェックして翌日ひき肉が安い店を確認してヨダレを飲み込みながら寝た。

早速午前中に買い物に行った。市販の餃子の皮は20〜30枚で100円前後。大きさだけじゃなく、メーカーも数種あり、どれにしようかと考えているうちに「いっそのこと皮から作るか」と、前日クックパッドを見た時にそのレシピを公開していた人も皮から作っていたので頭の中のレシピを思い出しながら小麦粉を探し求めた。

豚ミンチ200グラム、鳥ミンチ100グラム、ニラ1束、キャベツと白菜適量をタネにして、一旦冷蔵庫へ。

皮は小麦粉400グラムをお湯で混ぜつつ、頬ずりしたくなるような風合いになるまで捏ねて、ラップをして寝かせた。

机をクエン酸で拭いて、片栗粉をエイっと撒いて、寝かせた小麦粉を伸ばした。慎重に慎重を重ね、その後の掃除のことまで視野に入れつつ皮を形作り、小一時間かけて50個ほど餃子を作った。それでもまだ三分の一ほど皮とタネが残ったので、それはまた翌日にと思い冷蔵庫へ。

一応市販の皮も20枚一袋だけ買って包んでみたが、やはり整っていることもあってこっちの方が遥かに包みやすいし、実際に焼きあがった姿は毅然としていた。知性派というかシティ感のある餃子で、自作の皮の方はというと分厚く形もまちまちで、まさに無骨、まさに野趣といった雰囲気で、焼いた姿を見て「中学で野球部入ったら無条件でキャッチャー。吹奏楽ならチューバ蒸されるな」と独り言が出たほどに、無骨さと野趣に磨きがかかっていた。

味はというと、市販のものは悪く言えば無難、よく言えばいつものといった感じだったが、自作の皮で包んだ餃子はそのぶ厚さがいつもの餃子とは一味も二味も違っていて、おかずというよりは主食くらいの食べ応えもあり非常に美味しかった。焼きもいいけど水餃子にしたりスープに入れたりしたらさらに美味しいやろうなと思いました。

餃子なんてもの一食で食べても10〜15個くらいのもので、余ったものは冷凍したりラーメンに入れたりと二日間ずっと餃子を食べて過ごした。かなりの餃子欲は満たせたつもりだ。

作ってみて思ったのは、ちょっと食べたいなぁって時は市販の冷凍の餃子が経済的にも効率的にも良いでしょうね。最近の冷凍餃子って本当に美味しいですから。下手したら町の中華屋の餃子くらいより美味しいかもしれないです。

恐らく皮から作ったこの時の費用は600円から800円程度だと思いますので、三食で食べても一食200円程度なんで市販品の方が安くつきますね。作り置きする前提でってなると手作りの方が安いけど、餃子って一旦並べて冷凍してからでないとくっついたりするからちょっと面倒なんですよね。だから、これからは餃子パーティーでもしない限りは皮まで作るなんてことしないと思いますけど、あの無骨な皮の感触を覚えた唇がそれで許してくれるかが不安ですね。

余った小麦粉でうどん作ってみようかと思っていますが、なんせ暑いんでね、冷房つけてうどんこねるっていうのは経済的かどうかっていう新たな問題が出てきますよね。業務スーパーで28円で売ってるわけだし、冷凍うどんも超美味しいですからねー。経済性や効率以外の目的があれば作ってみようと思います。

今回小麦粉がカメラに入ったら嫌だったので、カメラは別室に置いていたので写真は一枚もありません。せめて焼いた姿だけでも撮っておけばよかったと後悔しています。
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2016年07月02日

20160702 休日の過ごし方。

気付けば七月です。ライブ四連チャンを終えての今日土曜日はお休みです。あーこういうときにイケてるミュージシャンは振り返ったり、次回ライブの告知等をスマートにスムーズにスムージーなんて飲みながら書いてしまえるのでしょうなぁ。

こちとらとにかく読書読書読書、DVDDVDDVDと脅迫観念的になっていて、今日は一日それに費やすぞと思っていたのですが、梅雨の中休みなのか異常と形容できるほどに素晴らしいお天気のおかげで午前中から部屋が蒸し風呂と化したので、せっかくなら日焼けもしてみたいなぁということで散歩がてら海辺まで行きまして、その適当な木陰にて読書してまいりました。

暑ければクーラーを点ければいい。

そうなんだろうけど、今の僕にはどうも違ったんですね。それは電気代が、という点もないわけではないですが、そこまでして自宅に籠るということに頑なではないわけで。結果的には四日間の疲れや反省、日々の暮らしの疲れが、木陰に二時間ほど座り、今読みたい本を読み、風が吹いて、今年初めての蝉が足元に落ちてきて騒いだりと、癒しというほどに上滑りのしやすい言葉を選択するのは嫌々ではありますが、癒された時間だったと思います。例え読んでいた本が森達也の著作「『A』撮影日誌―オウム施設で過ごした13カ月」であっても・・・。

暑ければ木陰に行けばいい。

書を捨て街に出ようではないが、暑ければ冷やすのではなく、暑くないところに身を置けばいい。そういう思考が今の僕には自然なんです。

過渡期、過渡期と何年も口に出したりしていますが、ここ数か月のうちに逍遥し、逡巡した思考がメリメリと何か皮を破るような音が身体からしているような気がします。個人的にはこのタイミングで改めて森達也氏の著作に手を伸ばしたことと、CD制作のためにとオウム真理教に関して目線を向けたことは大いなる意味を持っていると確信しております。

これからまだまだ暑くなりますが、それぞれの立場で、それぞれの生き方で、それぞれの暮らしの中で健康に過ごしていけたらなと願っています。




蛇足ですが、今思うこと。

「選挙に行かなければならない。投票しなければならない。」
と無暗に言葉にする根底に「ある種の思考停止はないか?」ということ。

あまり深くまで考えてはいませんが、民主主義という思想や形態、漠然と国家と呼ばれるものが選挙にて担保されるなんていう時代はもう・・・、と思ってしまっています。民主主義と選挙は論点が違うと言われればそれまでですが、選挙というものが何を選んでいるのかが分からない以上は体は反応できないでいます。

個人という人でしょうか?政党でしょうか?思想でしょうか?いわゆる未来でしょうか?

どうも解せないでいるんですな。これも一種の森達也病ではあると自覚して、普段は口にも出さないような政治に関することを書いてしまいました。まことに蛇足であります。

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2016年06月13日

20160613 オウム真理教


結局のところ、今自分が音楽をやっているエネルギーの根源はオウム真理教と酒鬼薔薇事件の二つの事件が元となった感情や心情なんです。それを分かりやすく噛み砕いて、ルサンチマンとペーソスだとか言ったりしているわけですが、、、。

個人的に1999年にあらゆるものが飽和と化したと思っていて、ゼロ年代は正直その余波というか惰性でのみ長らえていると感じで、2010年代に関しては何も語ることがないだろうとすら思っています。日本という国の戦後や昭和という風情や品位や文化風俗というものは1999年にバーストしただけでなく、その価値が反転したくらいの冷血なベクトルへと加速していると思ってなりません。

今作っている「SEMODAI 2」に関しては、今までの総決算として作っているわけです。そうなるとどうしても向き合わなければならないなと思っていて、ついに先週中ごろからオウム真理教に関して書籍やネットを使って調べに調べている最中であります。

どうしてアルバム作るだけなのにオウム真理教のことを調べる必要があるのかと疑問に思う人も多数いるでしょうが、立川談志が「落語とは人間の業の肯定である」と言ったように、演目さえやれば落語というわけではないわけでしょう?もうそう疑問に思った人は後の文章読んでも仕方がないと思うのでお茶漬け食って帰っていただいて結構なんですがー(笑)

音楽とて、とりわけジャズなんてものは1800年代後期からのアメリカにおける黒人の位相なわけで、現代の日本人である僕がどうやれば肉体性と精神性のあるジャズをやるのか、それも過去ではなく同時代性の音楽としてのジャズとして表現できるのかと少しでも考えたら分かるわけですよ。「自分の人生をやればいい」と。

オウム真理教を通して様々なことが見えてきますよ。そして行き着くのは文化と情報と思想と宗教、とどのつまりは人間のことなんですな。

僕が人間である以上、特定のものを深く深く解析していくと人間という問題に突き当たるんです。それがジャズでもそうなんです。ジャズを勉強してジャズや楽器の技術や理論みたいなもんに当たるような奴の即興音楽なんてあと十年もすれば全部AIがやってくれますからね。ジャズだって人間がやってんだから、人間にぶち当たって悩んで考えてってしなきゃ、いつまでもいつまでも過去と似通ったものにしか価値を見出せない人たちが守り立てていくなんてことになるんでしょうなぁ(遠い目)。

過去や経験を軽々しく言ってるんじゃないんです。それに夢中なひとであれ、同時代性があれば僕はすてきだなと感動すると思うんです。先に書いたアイさんの踊りも然りです。

表現者としてのフィルターや視点、その独自の感性を肉体と精神をフルに使って全身体でやればいいだけじゃないか!と今では思っています。そのためにも、今の僕はオウム真理教を勉強するんです。
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2016年06月08日

20160608 身体を考える。

メロンオールスターズに参加して、音楽家以外のパフォーマーの方々を見たり喋ったりすることが何よりも経験として身になっているように思います。


特にここ数ヶ月考えている「身体(身体性)」に関して、先日の船上ライブでのコマツアイさんの踊りの一幕に一人痺れておりました。詳細はまた改めてしっかりと咀嚼した上で書き記したいと思います。


音楽家、演奏家というものは時間に対してどれだけ存在感を問えるかという問題に悩み続けますが、体を使ったパフォーマーたちは時間というものに対して非常に素直に受け止め、また受け流しているように僕には見えました。もうそこには逆らわない。というふうなようにも時には見えるくらいです。それよりももっと空間に対してどう向き合うか、といったことの方に重きを置いているように思えました。その際やはり、自らの肉体と精神だけが武器と言いますか、表現装置となるわけですから、音楽家や演奏家が楽器や機材を通して音響化させる表現というものとは多少なりとも性質が違うとはいえ、違うものだなぁとメロンに参加するたびに思うわけです。


では音楽家や演奏家がどれだけ肉体に対して考えているのか、思想を持っているのかと問われると、基本的にはその人次第ではありますが、演奏上の技術と継続していくための体ということ以上には踏み込んでいないのではないかと僕は思っています。どうしても想像やイマジネーションの後になるんだと思います。


体をまず変化させることでそれに合わせた想像力を得るということ、まぁざっくり言えば過剰なダイエットや急激な肥満ですらそうだと思います。ダイエットしている時はイライラしやすいとか言いますよね。それも肉体から精神への刺激だと僕は思います。


んーまた何を書きたいのか、伝えたいのか分からなくなってきました(笑)


パフォーマーに対して音楽家や演奏家が劣っているということではなく、それぞれが脳の別の部分から表現というものへ辿り着こうとしているということですが、そこをもう少し僕は音楽家側からパフォーマー側の脳の状態を知ってみたい、それでやってみたいと思っているんでしょう。音楽は少し精神に傾倒しすぎているかなと最近では思っていて、どうすればもっと肉体的な音楽ができるのか、精神と肉体のバランスが計れるのか、そういったことを考えています。


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2016年06月04日

20160604 今日明日は琵琶湖でメロンオールスターズ!

今日明日とメロンオールスターズが琵琶湖汽船船上にてライブパフォーマンスします!

※僕は5日のみの参加になります。
そして僕が現存するドラマーで最も好きなドラマーである豊田晃さんは4日のみの参加ということで、また会えずじまいでとても悲しい。嗚呼いつの日かツインもしくはトリプルドラムでご一緒したい!

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メロンオールスターズ船上公演
「マー坊の青春 ウラオモテ 〜湖上にて〜」

2016年6月4日(土)18:00出港 20:00帰港(受付17:00〜17:50)
2016年6月5日(日)14:00出港 16:00帰港(受付13:00〜13:50)

予約・前売3,000円 当日3,500円
(高校生以下・車いす・障がい者無料)
琵琶湖汽船「megumi」船上

⭐︎受付場所:大津港観光船のりば
⭐︎所在地 :大津市浜大津五丁目5-1
⭐︎アクセス
・公共交通機関 JR琵琶湖線 「大津駅」 下車 徒歩 15分
・京阪電鉄/石山坂本線 「浜大津駅」 下車 徒歩 3分
・車 名神大津ICから5分
⭐︎駐車場 普通車 150 台(浜大津アーカスを御使用の方は3時間無料)

ご予約・お問い合わせ
melonallstars@gmail.com

「メロンオールスターズ」
森定道広(コントラバス)
デカルコ・マリィ(アングラ)
中西功(ドラムス)
行本清喜(トランペット)
市川聡(ギター)
コマツアイ(ダンス)
名定正孝(ピアノ)
きよこ(舞踏)
マサト(舞踏)
田中美保(スタッフ)
田村早恵(スタッフ)
山本幸代(スタッフ)
殿村ゆたか(役者)
川本充(役者)
太郎(ダンス・唄)
みみ(ダンス)
高木順(ダンス)
加原敏巳(写真)
諏訪いつみ(役者)
金魚(ダンス)
津上信子(フルート)
由中小唄(ボーカル)
定岡弘将(ドラムス)
有本羅人(トランペット)
荻野やすよし(ギター)
豊田晃(ドラムス)
登敬三(テナーサックス)
荒崎英一郎(テナーサックス)
袋坂ヤスオ(舞踏)
原口裕司(ドラムス)
永澤こうじ(役者)
大歳芽里(ダンス)
Bridget Scott(ダンス)
高瀬薫(スタッフ)
山口朋子(唄・三弦)
村木基起(スタッフ)
森定夏彦(スタッフ)
下坂千尋(役者)
西山まき(役者)
永尾美久(宣伝美術) 
山本隆雄(制作)

「メロンってなんなの?なにしてんの?」と聞かれることがたまにありますが、いつも答えに窮しています。これと例えようがない独創的で、役者が主体の演劇とも言えなければ歌やダンサーがいるけどもミュージカル風でもなく、舞踏でもなく、、、。言語化不能と言ってしまうのは簡単ですが、それでもメロンを掴み切れていない表現のようにも思います。

非日常であることは間違いありませんが、果たしてそれが本質かというとそうでもない気がするんです。役者、舞踏家、アングラ、ダンス、その辺りが僕周辺の音楽を愛するだろう方々から「?」を生んでいることは分かりますが、その人たちがいるからこそメロンオールスターズなのだろうと断言できると思います。

回りくどい言い方はやめます。

とりあえず一回体験してみてください。そして、その場はメロンオールスターズに身を委ねてください。そして打ち上げにも参加して、全身でメロンオールスターズを体験してみてください。結局ね、それでもなにかなんて分かるわけないんですけどね。僕も五年近く参加してますが、いまだにじぇ〜んじぇん分かってませんから。

どうぞよろしくお願いします。
posted by さだおか at 09:11| 兵庫 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月30日

20160530 たあいもないこと

徒然なるままに書き記す。忘備録というほどのこともないが、言質として次回とすべく書き記す。


最近分かったこと、というほど大袈裟なことでもないが、自分でも意外だったのだが、どうも僕が一番好きなピアノトリオはチックコリアのということだった。そしてチックコリアも好きだということだ。しかし視界に映る限りのチックコリア好きを自称するピアニストたちはフージョン臭がしてとても近寄りたいと思わないが、僕自身はチックコリアがとても好きだということに今更気づいたのだった。

宇宙の星屑ほどあると言われているジャズのCDやレコードの中で五枚選びなさい、選ばなければ死にますと問い詰められたら、間違いなくチックコリアの「Now He Sings, Now He Sobs」が入ることになるだろう。どうして好きなのかと自分でもはっきりとした理由らしき理由は有していないが、それゆえに生理的な部分で腑に落ちるからだとも言えなくわないだろう。

先日も明石のポチでセッションに参加してくれた若手の某氏とセッション後に話していたときに、ポチのN西さんが「ハンコックとかしにしても自分の出来ることだけして、出来ないことはしないから。何でもやろうなんてそんな人いないよ。チックコリアとかは別かもしれんけど」みたいなことを言っていたので、思わず僕は「でもチックコリアはリズムセクションの人間だけ変えて、やってることって一緒なんですよ。そこが賢いっていうかねぇ」と言っていた。N西さんも「そっか」と思うところあったような表情で笑っていた。その若手の某氏だけが空を見ていたなんてことがありました。

リズムの捉え方や、音の並びが決してビバップから芽が出たような、例えば「黒っぽいと」称されるようなピアニズムではありませんが、チック自身の生理や衝動に対して非常にダイレクトに反映していると僕は感じてそこはすべからくジャズらしいジャズだなと感じているところです。

あとやっぱり何でも手広くやっているイメージがあるんだけど、ライブ動画とか見るといつも同じ曲をやっていたりして、「何でも」というのはやはり何かしらの御解釈の元にあるんだろうとも思っています。共演者にしても然りで、自身のリーダーとなるバンド編成においてはいつもの面々ということが多いですね。企画物は別として。

あとリズム隊の組み合わせの妙に僕は驚きます。ヘインズとミロスラフとのトリオなんて最高ですよ。特にミロスラフなんて絶対曲知らんと耳と反応速度だけでやってるっしょ!?っていう適当さに盤石のチック&ヘインズのアンサンブル能力で立ち向かうという構図に僕は感じていて、どのアルバムも痺れるものがあります。

近年でのマクブライドとブレイドとのリズム隊も意外な組み合わせだと思いましたが、これもこれで面白いなぁとよく聴いています。しかしブレイドが二拍四拍でハイハットを踏んでいるのを聞くたびに逃れられないジャズの
イディオムの強靭さも感じて、なんというか心は侘び寂び比率二:八で胸が苦しくなることもあります。

そして何よりも彼のトリオを聴いていて「決断力」という言葉がいつも胸に迫ってきます。ジャズのアドリブ、まぁアドリブに限らずですが、イントロの一音目からエンディングの音を切る瞬間まで絶え間ない決断の繰り返しですが、それがチックコリアを筆頭にかのトリオの面々は侍が腹を切るが如くの潔さで斬れ味が非常に鋭いわけですよ。発想も鋭角なれば、展開も鋭角と言いましょうか。そしてとにかくその決断の根底にはおもちゃで遊ぶ子供の心のように「ただただ楽しく面白く」を頭じゃなく肉体的に全身体性を以ってやっているように僕は思えます。だからジャズのイディオムらしいイディオムに対して非情冷酷でありながら無かった物として扱うという非常識さは当然ありませんが、そこに甘んじるということは決してありません。未知なるものに対する欲望が果てしないんだろうなと浅薄ながら感じ取っています。


いつもプーさんプーさんと言って騒いでる僕ですが、プーさんもジャズイディオムに対する姿勢はチックと似ていると思いますが、この人の場合はもっと人間としての業、ピアニストとしての業、ジャズミュージシャンである業といった風に、とにかくそれらの因果にひたすらに苦悩していて没頭していったように思えて、音源を通してしか知り得ませんが、苦々しい日々を過ごしていたのだろうなと噂に聞く氏の人間性も省みて思う次第であります。その点でチックコリアはもっと軽やかに「アハハハーン」とか鼻で笑いながら地面を弾みながら独自の音楽で活躍しているんだろうなと受け取るこちらとしても深刻になりすぎずに楽しめますね。


長々と書いてしまいましたが、最近はそういう感じで生きています。
posted by さだおか at 10:46| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月26日

20160526

先週末から気分が晴れない。サウンドフェスタで神経を摩耗し、夜のポチとで体力的にヘトヘトになったことと、その前後に酒量が増え、生活リズムが乱れたことが理由だと思うが、気温も上がったことも要因ではあるだろうと思っている。

サウンドフェスタ以上に同時開催していたイベントにたくさんの子供連れの家族が来ていて、どうもその雰囲気や、往来に立つ人々に気遣いながら楽器の運搬をしたことが原因のようだが、それだけではないような気がする。

イベントが盛況なことは良いことである。それは僕もそう思う。そうでなければ続けていくことも出来ないし、企画者や主催者の努力が泡となってしまう。来た人も楽しそうだったし、イベントスタッフ達も多忙で活き活きとしていた。良いことだと思う。

が、想定以上に盛り上がってしまうと整然さを欠くのではないかという点が僕の中で重いのだ。それによってイベントの重心が上がってしまうことがあると思う。違う言い方をすれば、相乗効果でちょっとしたことでワッとなりやすいということもあるが、僕自身もハコが大きくなったり、観客の数がハコに対して「満」の状態になると緊張もするし、それによって力むことがある。無意識に普段よりも頑張ろうとしすぎるからだ。でも同時にいつもよりパフォーマンスが下回ってもその状況が許してくれるということもあるのだ。それが危険かなって思うから、あの日以来消化不良のまま過ごしている感は否めない。

例えばA面とB面、そういう言い方は誤解を招く危険性があるが、春日野道はB面としての機能があると思うんですよ。それが盛況であるということでA面感が出てしまった、ということが咀嚼できなかったのかもしれない。
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2016年05月13日

20160513 マイブーム

最近のマイブームを列挙。

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時代はきしめんだ。

元来麺キチで、一日一食は麺類なくらい好きなのだが、気温も順調に上がってきている今日この頃、ぶっかけうどん、ぶっかけそば、ぶっかけそうめんが美味しくて美味しくて堪らない。

先日もスーパーの麺類コーナーの前で何やかんやと見ていたら、妙に腰の座った態度できしめんと稲庭うどんが並んでいて、稲庭うどんと細うどんの違いが未だに分からないベイビーな僕は男らしい佇まいのきしめんを手にレジに直行したのだった。

一度茹でてから冷水で締め、あとはぶっかけて啜るだけ。シンプルかつ美味い。洗い物も楽。何より暑苦しくない。かといってきしめんゆえに他の麺類では比類なき噛みごたえと啜るときに感じる唇との摩擦からの官能性に気が狂いそうになった。美味ーーーーーーーい。

今朝は近所の大安亭市場のオリンピック製麺所で一玉百円のきしめんを購入し早速食べた。それはもうスーパーのものとは次元の違うきしめん具合でさらに満足だった。しばらくハマりそうである。





音楽ではH Jungle with tGoing Going Home にハマっていて、一日一回は聞いている。

そもそもこの曲を聞いたきっかけが恥ずかしいんだけれども、某エロサイトでアイドルのイメージ動画を見ていたときに、そういう動画の多くは無料のフリー音源を使い回していたりするんだけど、アップする人の編集で消音して懐かしのポップスを重ねられていたりすることが多くあり、性的欲望を膨らましているのにすっかり「あ、この曲いいなぁ〜」と意識がいってしまうことがたまにあり、一番最近聞いてグッときたのがこれだった。

元から浜田さんの歌声が好きで、特に「春はまだか」が一番好きだったのだけれども、この曲や「誰かが起こせよムーブメント」の方も今聞くと素直に格好良かったりするのである。見落としがちな90年代中頃のポップス。まぁいわゆるTKが天下を取っていた時代なのだけど、天下を取っただけのことはあると思わざるを得ないのだろう。



あとは何と言っても赤瀬川原平だ。

毎週のように図書館に通ってはこの人の本を借りて貪るように読んでいる。大袈裟な言い方になるが、僕が今まで読んできた作家やその本、それは小説エッセイその他に限らず、とにかく文章という文章、言葉という言葉に触れてきたのはこの人の文章に至るまでの過程に過ぎなかったのではないかとすら思えるのだ。

特に最近集中して椎名誠や東海林さだお両氏にハマってかなりの量を読んだが、そのユーモアや軽妙な文章体にも非常に魅力を感じたが、赤瀬川さんの文章からは他の人には感じ得なかった品格があった。その感じって宮沢章夫さんの文章もあるのだけど、あの人はあの人でもちろん面白くて大好きなんだけど、自分が書く言葉や思想みたいなものに絡まっている感じがするんですよ、赤瀬川さんと比べると、ですけど。その点で赤瀬川さんは非常に軽やかに自分を再考する潔さがあるし、文章中にその過程をさらけ出すので逡巡が手に取るようにわかり、その人柄がなんとも言えず魅力的に感じてしょうがないのである。

赤瀬川さんや写真家の森山大道さんを調べれば調べるほどに、穏やかな人ほど怖いなぁと思うようになってきた。見た目派手だったり、作風が飛んでいたりする人っていうのは逡巡が少ないように思うんです。偏見ですけどね。それよりかは、穏やかな眼差しの裏にはどこまでも冷酷な批評性が潜んでいるような気配もするし、他者に対してあくまでも他者と切り離して思考するんだという僕からすれば優しさみたいなものを感じるのである。

憧れ。まさにそれ。赤瀬川さんに憧れる。




こうやってマイブームを並べたが、一見何の関連性もないようだが、これが僕の身体を通して収斂する日が来ると確信を持っているのだ。

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2016年04月24日

20160425 サンデーモーニング

米が炊けるまで味噌汁の具でも買いに行こうかと500円玉とカメラを持って春日野道を歩いた。比べるのも変だが、三宮なんかよりよっぽど眼が活き活きとする。比べるのも変だけど。


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2016年04月16日

20160416 途方もない音

これは僕の友人で某所の高架下にて農業を営む某氏が高架のコンクリートをスコップで掘削し、その穴の一つ一つで苗偶を育てる作業をしていて偶然見つけたかなり古い時代に埋められたタイムカプセルの中に入っていた手紙に書いてあったそうである。



A:サダオカさんがテーマとしていたマスクという物を紙を破いてもう一度被せつつ破いたりして半壊した豚のレザーパンツのような一部だけ分厚いテクスチャの顔や破裂させた血管のネットの上からデッサンを重ねその上からより顔が分離するよう蛍光色を導入しより過激にし血液や色彩の霧が体というより絵の外から『見る側の血液』出ているようにしたりで、そこで、ある新しい感情が芽生えてきたのですが 『無い物と有る物の差を無くす事』




B:無いも有るも一緒ですからね。視る角度の違い、みたいなもんでしょうね。




A:無音と有音の差を無くすにも『角度』があり、ある一音が知覚を遠ざけるよりも先に鋭敏に無音または有音を切り裂かないと普段は科学的に合理的に切り裂きたい対象から遠いはずの混沌なる幻想が、音楽を聞く前の現実感により遠近両用の距離で実際の聴覚『音楽を知る前の生物の耳』を色男が甘い低音で塞ごうが歌姫が金切り立てようが歌詞の意味位しか『耳』は聞いてはいない、現実をより認識する為に音楽の操縦者によるコックピット内で働きかける機械となるのは現実を高度に認識した音楽の『角度』がその全ての『差』を決定していると耳が本能的に狩猟するものだ すなわち『角度』は常に科学を超え、科学を超えうる角度を取り込んだ細胞を自ら進化させ増殖し厳しい規則を与え続ける、これぞ最高の芸術 あっぱれ





その内容に刺激を受けた農家の彼が僕にその手紙のコピーを送ってきてくれたので、その文章のままここにアップした。

これぞ僕の日々考える音楽の何とやらであり、五線譜上に表現などなく、かといってそれ以外のところにも音楽は居場所などなく、やがて届くだろう耳を求めて今もこの世界中を彷徨っているのだろうかと途方もないことを妄想したリと、僕もすごく刺激になりました。

ありがとうございます!!!
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20160416 妄想想像を具現化するの。

今月末の天昇堂でのラディカルな関係の内容と構成やらを日々机の上から布団の上、自転車漕いでもスーパーで新鮮な魚を選ぶ時にも妄想と想像を頭の中で繰り広げられるだけ繰り広げてやっとここ二、三日でその方々に散らかったパーツが収斂していく感じがあり、早々に文章化しようと企んでいます。

当初から写真家の森山大道氏に関して一年間を通して創造するという文句の下に始動しましたが、性でしょうね、どストレートには書けないわ手を伸ばせないわでかなり婉曲的にではありますが、僕が森山さんの写真を通して捉えた人物像の輪郭を少しずつですが触れられたらなぁと思います。

色々と考えを深めていく中で「不在」というキーワードに辿り着きました。

写真家の眼が写真そのものを捉えているはずなのに、いざ写真として僕たちが目の当たりにする時にその当の写真家の存在や眼といったものは写真という構造に不在なのではなかろうかということが気にかかったんです。そこに作家性を持たせるでなく、森山大道という写真家の作品はどれも沈黙と静止が溢れているように感じるんです。

ま、そういったことから自分の経験とかをフィードバックしてきて、半ば無理矢理こじつけたりもしつつ、作品に仕立て上げるといういかにも芸術然とした気概で文章化していきますのでどうぞお楽しみに!

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4月28日(木)春日野道 天昇堂
定岡弘将DRUMS,VOICE 井上歩BASS
開場19時 開演19時半
¥1800


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2016年03月30日

20160330 東京日記2

幾つかの希望と幾つかの後悔を胸に東京からはバスで帰った。前後のどちらかに足がものすごい臭い(口語体で表現するならば「もんすっっごいくせぇぇぇ!」)人が居たみたいで、バスが出発するよりも早く乗車して早々にグロッキーになりました。

バス乗車までの時間は前日のライブの興奮も冷めやらぬまま朝の新宿を西へ東へ南へとホテルがあった北以外は隅々まで歩いて撮影。ホテル周辺歌舞伎町周辺は昨晩に歩き回っていたので省いたが、朝の歌舞伎町というのもまた違っていたのかななんて少し後悔。

そして一番の後悔は新宿西口の思い出横丁にある天ぷらそばを食べ損ねたことだった。つまらないことだが、そんなことが一番の後悔と簡単に言えるほど充実した一泊二日だった。無論ライブの内容も。

ライブ後はバス移動やら電車移動やらでものすごく疲れていたが、こういう時でもないと深夜の新宿にいる機会もなかろうとカメラと缶ビールを手に二時間近く歩き回った。その時にちょうど小腹が空いていた時にその蕎麦屋の前を通りスーツ姿のおっさん達が美味そうにすすっていたのを横目に見て、「お、もりそば美味そう230円か。んーでもまだ飲み足りないし、食べるとしてももうちょっとコッテリしたのがいいなぁ。朝飯にしよう、そうしよう。」なんて思いながら通り過ぎていった。

そして翌日も散々歩き回ってこの店の前に行くと無情にもシャッターは閉じていたのだった。そう。日曜日ということを忘れていたのだった。

思い返せば最初に東京に行ったときにも、早朝の西口にバスが着いて、方角すら分からない状態のままにウロウロと田舎者丸出しで歩いていた時に湯気をモワンモワンなってる中で数人の男達がハフハフ熱いのをすすっていたのが妙に美味しそうで記憶に焼き付いていた。数年越しの蕎麦をやっと食べられると興奮していただけに落ち込みも相当なものだったが、ルミネの裏あたりに以前入った蕎麦屋があったなと思い出して行ってみたら、周辺に三軒ほど立ち食い蕎麦屋がありその内の一軒に入って欲望を満たした。

東京ってああいう立ち食い蕎麦も美味しいですね。値段も関西のそれと変わらないのに全然違う。うどん文化と蕎麦文化の違いもあるんだろうけど、こっちで駅前とかの立ち食い蕎麦屋になんて入ろうもんなら五秒以内に注文できないともう一生できないなと思うくらいの態度に心が折られますからね。というかほぼ行かないんですけど、やっぱり美味しくないっていうイメージがあって入らないんですけど、飯ものよりも腹に良い気はするんでもっと気軽に入りたいんだけどなぁ。あと東京のそういうチェーン店でも呑めるように最近ではアテも充実してるとかで、その方面でも羨ましい限りであります。

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東京でも一緒にやりました野津昌太郎が現在関西に向かっているそうです。高速バス黒帯の彼のことですから、約八時間の移動も充実した時間を過ごしているんでしょうね。僕はまだまだ白帯ですので、五時間を超えたあたりからお尻の感覚が無くなってきたりと大変でした。その野津が帰神中に一緒にするライブの予定です。



3月31日(木)春日野道 ギャラリー神戸天昇堂 
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開場19時 開演19時半 ¥投げ銭

4月4日(月)神戸 BIG APPLE
定岡弘将Drums 野津昌太郎Guitar 井上歩Bass
開場19時 開演19時半
¥2,000(予約) ¥2,200(当日)

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各会場でお待ちしております!
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2016年03月27日

20160327 視点の立つ眼

批評と編集。

それがゼロ年代を経てこれからの表現の視点だと話の分かる人と呑んだ時には口酸っぱく言ってるわけですが、とにかくもう早々オリジナルなんて生まれないという前提に基づいて音楽だけじゃなく、表現一般を考えての現時点での結論である。

模倣と踏襲ばかりがジャズに限らず耳に届く範囲の音楽に見受けられるが、無論それを支持する評価する人が多数いるという需要と供給という面もあるんでしょうが、どうもバランスの悪い傾倒だとずっと思っている。

模倣と踏襲とてある視点に立って考えれば十分批評と編集としてこちらも見受けられるのだけれども、どうもそこまで至らない稚拙な思慮思考で捉えているのではないか?と常々疑問に思う。正直な話、これは同世代くらいの音楽家に関して思うことであって、やはりジャズの華々しい時代に呼吸していた年代のミュージシャンに関してはもう言うまでもない。

今日久しぶりにミックスダウンの作業をしてことさら思ったのだが、音の配置、音色の良し悪し、その他楽曲が完成に至るまで限りない選択と判断を繰り返すが、そのときの判断基準というのが自分のどの感性でどの感覚でということが問題となる。

単に良い音といってもそれはそれは深い問題であることは言うまでもない。持っているビジョンに近づけるのか、それとも録音時の生の音に近いことが良い音なのか、楽曲に相応しい音がそうなのか、その「良い」ということですら尽きない問題だが、僕が思う良い音というのは録音され、音の周波数が電気信号となり、それがまたスピーカーを通して周波数となり耳に届くというライブとは全く別の録音物人工的というか非自然な、音というか生産物としてどこまでuglyでbeautyかという処に寄っている。その根拠となる判断基準にも僕はこれまで聴いてきた音や音楽、自分のバックボーンやインプットされたすべての情報を網目として洗練に洗練を重ねる。

そして何々に似ているから良い、なんて僕はあり得ないのだ。そこで止まらずに、これにこれを敢えて組み合わせたらどうだとか、あえてこの音を配置することで違和感を残せるとかばかり考えてしまうという点では先に書いたことと視点は違えどもこだわっていることに他ならないが、そのこだわりが模倣なのか批評なのかという点では雲泥の差があると僕は考えている。

ここでいう批評というのはいわゆるレビュー的な意味合いではなく、自分のこれまでとこれからを対象となる一点に集中させたときに自分がどう感じ、どう受け取り、どう伝えるかということである。なにも評価するだけが批評ではないと僕はこの言葉を解釈している。


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2016年03月18日

20160318 明日は大泉学園インエフで待ってる。

いよいよ明日になりました。

3月19日(土)大泉学園 in F
「KYOU-SHIN」
加藤一平Gt 野津昌太郎Gt 定岡弘将Ds
開場19時 開演20時
¥2500
東京都練馬区東大泉3丁目4−19
mail in-f.sato[at]nifty.ne.jp 
tel 03−3925−6967
http://in-f.cocolog-nifty.com/



どうも明日の天気は優れないみたいですね。その状態で楽器持って右往左往は厳しいかなと想定していた荷物をもう一度一から組み直すべく一旦全てを広げてそれを鞄に詰めていく作業も一時間以上かかりました。結局シンバル類とボイスエフェクターのみ持参します。その他の荷物なんてパンツと歯ブラシくらいなもんで気楽なもんですが、こういった遠征時にこそつくづくベース以外の楽器の人が羨ましく思う次第です。ベーシストは移動の際の置き場所や、それこそ移動手段すら限定されてしまうので大変やなぁと同情しますが、基本的には自分の楽器さえ持って行けばどんなハコでも自分のコンディションで出来る点ではまた羨ましいなぁと溜め息が出てしまいます。上も下も横もどこ見て比べてもしょうがないですね。


昨日ふとホテルの予約が出来ていたか不安になり確認の電話をしました。電話に出たのは男性で、予約は無事に取れていたのですが、料金のことで質問したところで「ん!?」となることがありました。


例えば僕が泊まる部屋の料金が1980円だとするじゃないですか。だとしたら電話口でその料金を伝える際は「センキューヒャクハチジュウ円でございます」となりますよね。で、さらに例えば1万980円だった場合、「イチマンキューヒャクハチジュウ円」ですよね。もしくは「イチマンとキューヒャクハチジュウ円」って言われてもまだ分かりますよね。ただ、昨日のその男性は先の値段1980円を「イッセンとキューヒャクハチジュウ円でございます」と言ったわけです。

驚嘆することなくただ単に聞き取れずに「え、え、え!?」と取り乱し気味に聞き返しました。するとまた彼は言うわけです。

「イッセンとキューヒャクハチジュウ円でございます
「あー1980円ですね?」
「そうです。イッセンとキューヒャクハチジュウ円」
「・・・。分かり、ました」



「○○と○○」って金額を言う場合、「と」っていうのはandとしての機能はもちろんあるんだけど、「○○飛んで○○」としての機能の方が僕は強いと思っていたので彼が一体何を言いだしたんやと驚きが治まらないままに電話を切りました。大丈夫か?ほとんどの人が聞き返してるんじゃないか?

1万980円でもイチマンとキューヒャクハチジュウ円とは言わんでしょう。僕なら一万98円くらいになればイチマンと〜と言うかもしれないけれどもだ。それでも基本的に対面しないような場合は避けるべき表現だろうなぁなんて憤懣やるかたない気分で来るべきフロントでの応酬に軽く気に病んだのでありました。


とにもかくにも、定岡弘将上京物語新宿〜大泉学園編です。早速明朝は家を出るのが5時過ぎという早朝に緊張感バリバリで眠りにつこうと思います。


是非見に来てくださいね!
posted by さだおか at 23:17| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

20160315 転々の原作

こうして日記のような、極私的な日常を元に文章を書くのも一種のリハビリと思ってやっている。それもこれも現在制作中のセモ大のアルバムのインナーにしたためるかどうか、その他の自主企画等で使う詩を書きたいが為に、である。


一年前の録音を経て、一旦創作という意識は休んだが、それがどうも再始動する気配がないままに数か月、半年、一年と経ち、その都度焦りは増すばかりだったが、今週末の東京のインエフでの野津と加藤一平さんとのライブ「KYOU-SHIN」でも是非書き下ろしたものを使ってボイスパフォーマンスをしたいなと思ったのです。


しかしやはり筆は重く、思うように言葉、それこそ単語すら出て来ないわ繋がらないわで四苦八苦しているのです。今朝方やっと方向性といいますか、こうやって繰り広げるための素材みたいな程度ですから創作物としては脆弱極まりないものですが、久し振りに形になりつつあるかなぁという感触を持ちました。それもこれも昨日このブログに恥ずかしげもなく長い文章を書いたこともあってではないのかなと思ったりもしていて、今日は是非、本当は昨日書きたかったことに関して書いていこうと思う所存であります。枕が長くなりましたな(笑)



以前も書きましたが僕は「転々」という映画が大好きで、ことあるごとに見返しては「いいなぁいいなぁ」とエンドロールに流れるムーンライダースの「髭とバルコニー」で涙を浮かべるのです。エンドロールに原作者の名前と出版社があり、こんだけ好きな話だからこれは一度読んでもいいなと思い図書館に行きました。元々僕は映画が良くても原作は読む気はなく、また逆に好きな小説が映画化されてもそれを観賞するなんてことは意図的にしてきませんでした。どっちがどっちでも、先に感動したものを越すような感動はそれらから得られないと思うからです。先に書きますが、残念ながらこの「転々」も映画ほど、いや小説(「転々」藤田宜永著)としてすらまったく魅力のない作品のように僕には感じられました。


登場した人物が全て結果的に縁者であったこと。
無理にねじ込まれたかのような性描写シーン。
福原の妻の描き方。
会話一つ一つは魅力的なところもあったが、どうしても説明の部分とその人物の言葉との温度差。
オチなんて読むのも嫌なくらいでした。

まぁ列挙するとまだまだありますが、とにかく僕は映画の「転々」は三木聡という人間の作品クオリティを改めて驚くのでした。


やっぱり福原が東京を歩くということにした理由である妻の存在と、その妻のその後といいますか、その人物にもやはり関わっていた人間たちがいるわけで、その人たちが福原妻が不在となることで日常からすこしずつ日常ではない日常へと意向することを描くことでただただ散歩の理由としての存在ではなく、話のリズムを生むのに役立っていると思います。

三木版でも会話の基本形は藤田版を元に脚本家されていますが、三木版は途中から話を変えています。そこが映画のもっとも良いところといいますか、文哉が経験することがなかった家族の団欒ということへの慕情がじわりじわりと滲み出てくるわけで、藤田版ではそういう欠落した記憶と体験を取り戻すことも出来なければ、その当事者である母親が登場するという最悪の流れにして話を蹴散らして終わります。そうじゃないんですよ、「転々」という話は!と原作者に対して文句を言うなんてお門違いもいいとこなんですけどね(笑)


そして何よりも、この話は東京の街で思い出のある場所や過去の自分の帰路や今の人生に至る決定的な人や出来事があった所への散歩することで喪失と欠落を再確認し、それでも生きてこれたしこれからも生きていくのだ。それこそ数多くの街や人を転々としながら今までもこれからも自分は自分でしかないと確信と失望の両方を背負っていくしかないということがこの話の全てだと僕は思うんです。それが藤田版では全然未来が見えないんです。過去と向き合うでもなく、過去に捨て去った人間関係にいまだに縛られていたことに気付くだけで、文哉も福原も報われないんですよ。


その点三木版は決して幸福ではないが、あくまでも未来に繋がっていく今を確かに描いていると僕には感じられます。しかしそこは三木作品独特の飄々さというか、重いものをあっさりではあるが確かに重く描く感じというのがもの凄く良いバランスで出来上がってると思います。


んー。これ読んだだけじゃ全然分かんないと思うんで、レンタルや図書館でいいので是非見てみて下さい。映画版も一回見ただけじゃポカーンだと思いますし、三木作品未見の人からすれば差し込まれてくる三木ジョークに戸惑うことは必至だと思いますが、キョンキョンとオダギリジョーがここまで魅力的な作品もないわけではないですがー(笑)素敵なんですよ!そ・し・て!東京という生物のような巨大な都市が魅力的で魅力的で、もーって感じです。


僕にとって東京とはこの転々と寅さんシリーズとアラーキーと森山大道とナンバーガールなんです。僕にはとても住めたような街ではないと思いますが、外の人間が興味本位で時折ふらっと混じり込んでは数日で抜け出すにはちょうどいい街ではないかと思います。そういう点でも週末の東京、特に宿泊地は新宿にしましたので、ライブ後の真夜中の新宿をカメラを手に歩きまわるのも楽しみでしかたないんです。


東京の中に自分を見つけられるのか。自分の中に東京は見つけられるのか。そういう裏テーマも野津には内緒で持っていたりするんです。
posted by さだおか at 11:05| 兵庫 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする